メガネくんのブログ

何となく日々思ったことを書いていくブログです。教育や本の感想なんかも書いてます。表紙の画像は大体ネタです。

働いたら負けというか働かないのが勝ち組という風潮

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僕は支援学校で働く、いわゆる教育公務員である。

公務員になるには試験に通る必要があり、僕も教員採用試験というのを突破して今の職についている。

「公務員や教員は世間を知らない」とはよく言われる言葉だが、その原因の一つに公務員の仕事にノルマや生産性が可視化しにくいというものがあるのかもしれない。

余談だが世間を知らないという言葉は、「その人が思う世間を知らない」という意味だと思う。世間にある程度の共通ルールはあるが、働く場所によって常識というものは姿を変える。そして人間は自分の体験したことを基準と考えてしまう生き物だ。これはもちろん学校の校則が世間の感覚とズレている原因でもある。

 

学校の教員の仕事に授業があるが、これは内容ではなく時間が決まっている。

だから、例えばその学年のその教科で教えるべき内容を全て教え終わったからといっても、残りの授業をしなくてもいいということにはならない。要するにどれだけ工夫しても時間を圧縮することはできないのだ。

反対に教えるべきことを教えられていないとしてもそれが判明することはわからない。教員一個人に裁量が任されている所以だ。

どのような内容を指導すべきかというものを示した学習指導要領や教えるべき内容を網羅した教科書はあるが、それを指導したのかどうかをチェックする機能は正直ない。

 

またどんなに子どもたちがわかりやすい授業をしようが、その授業のためにどれだけの時間をかけて準備しようが、支払われる給料は基本的に同じだ。注がれた熱量ではなく、年功序列によって給与額は決まる仕組みなのだ。

 

教員には授業以外に、大量の事務仕事や行事などの企画運営、校務分掌といった係業務もそれなりにある。これらの仕事はどうしたって偏りが出るし、チーフになれば負担の量は跳ね上がる。それでも、業務の負担量ではなく、年功序列によって給与額は決まる仕組みなのだ。

 

…なんだか書いていて悲しくなってきた。

 

僕も三十代半ばを超え、初任の頃のように毎日遅くまで残業し、休日も出勤して(当然ながら賃金は発生しない)授業プリントを作ることはもうない。

まぁそれだけの熱量を子どもに注げるということは、「あんなにしてやったのに」というダークサイドに堕ちやすいというデメリットもあるのだけれども。

 

二十代のような熱量と時間と体力はないのだけれども、でも、できる範囲でできるだけの仕事はやろうとしている。

 

でもみんながみんなそうな訳ではない。

どう考えても制度設計上、頑張る人が金銭面では報われないようになっているのだ。

特に頑張る若手はコスパが悪い。

 

もちろん僕のモチベーションは給与アップではなく、子どもの頑張りや成長、周りの大人からの評価、自分の成長、自分の働きやすい環境づくりなどになる。

だから頑張って働こうと思うのだろうし、それなりに報われていると自分では思っている。

でもそれらは万人のモチベーションとはなり得ない…のだろう。

 

だから「一生懸命働かなくてもいい、最低限のことだけすればいいじゃん」と考える人が出てきてもおかしくない。

 

一時期話題になった「働いたら負け」という言葉が浮かんでくる。

 

でもフリーライダーが増えれば、組織の他の人の負担感が高まり、共同体崩壊の危機となる。そうなると、フリーライダーを排除するため、ギスギスした雰囲気になってしまう。

そして教員というのは、子どものことは大抵許せても、保護者や同僚、上司といった大人のことになると心がキャパが狭くなってしまう生き物なのだ。大人のフリーライダーが認められないのだ。そして険悪な雰囲気になる。

病休をとる人が増える、人が足らなくなり、疲労感からさらにギスギスした雰囲気になる。

負のスパイラル…

 

そんな雰囲気の中で仕事をするのは嫌だ。

どうにかならないものなのか。

 

仕事のノルマを決めるというのは、合理的なのかもしれないけれど、みんなが納得する基準を決めるのが難しいし、公教育という他の選択肢が非常に限られる場で一定の定量に対応を限定するというのも個人的にどうかとは思う(もちろん際限なく対応できるものではなく、どこかで限界はくるのだけれども)。

 

どうしたらいいのかの答えは出ないけれど…いずれその選択を迫られるときはくる、だろう。