メガネくんのブログ

何となく日々思ったことを書いていくブログです。教育や本の感想なんかも書いてます。表紙の画像は大体ネタです。

教員と教師の違い『緩和ケア医が、がんになって』

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本の感想。

 

『緩和ケア医が、がんになって(大橋洋平)』という本を読んだ。

 

自分はながらく特別支援学校で働いてきた。大半は盲学校、視覚特別支援学校で働き、目の見えない、見えにくい子たちやその保護者の方々と関わってきた。

最初の頃はともかく、慣れるにつれ、視覚障がいやその歩む道、進路先やそのために必要な力、指導法や関わり方については知識も経験も増し、子どもたちや保護者の方よりもよく知っているという状況になる。関わってきたケースの数が違うのだ。

それは別に支援学校だけでなく、学校や病院といった場でも同じように指導する側、サービスを提供する側が優位になるのだろう。

(もちろん盲学校というかなりニッチで専門性の求められる世界故、例えば点字や歩行、あるいは視覚障がいスポーツなどで、教員よりも子どもたちや保護者の方が知識や経験があるという逆転現象もよく起こるのだが)

 

個人的には点字や視覚障がいスポーツについても積極的に経験してきたので、子どもたちに対しても、保護者に対しても、「視覚障がいかくあるべし」というものを伝えてきた。

ただ、「視覚障がいかくあるべし」というもの自体はそれはそれとしてあるのだが、誰しもが伝えられたことをそのまま受け入れられる訳ではない。

当たり前だ。僕たちは一人ひとりが意思を持った個人なのだから。

ただ経験と知識は、当たり前にあるその個人個人の差異を曇らせる。

「最終的にはこうなるんだから、早いうちから◯◯しない(させない)と」なんて独善的な思考に陥ってしまうのだ。

 

僕は自分の職業を書くときに教師ではなく教員と表記するようにしている。誰かの師になることは理想だが、誰しもの師になれる訳ではない。僕にできるのは、その子(や保護者)を変えることではなく、変えるための方法や知識を伝え、自分にできる関わりをすることだけなのだから。だから教師と名乗るのは烏滸がましい気持ちがしてしまうのだ。同様に自分のことを「●●先生」と呼称するのも躊躇ってしまう。

 

ここで『緩和ケア医が、がんになって(大橋洋平)』という本について少し語る。

タイトルの通り、緩和ケア医として末期のがん患者に関わり看取ってきた筆者が、悪性のがん患者となることで経験し、感じてきたことが語られている。

  • 栄養剤のエレンタールが美味しくなくて、というか不味くて飲めない。なので、こっそり洗面台の流しにサヨウナラ。
  • 生活リズムが乱れ、夕食が取れなくなり処方された薬を飲み忘れる。
  • 水分の収支を確認するための蓄尿が上手くできず、妻に手伝ってもらう。でも恥ずかしさでなかなか出ない。

どれもこれも医者として、必要なことだからと自身が患者に求めてきたことなのだからというとが肝だ。

 

特に心に残ったのは、僕が教員と教師について語ってきたように医師と医者について語られる部分だ。

 医師と、医者。

 広辞苑によれば、どちらも「病気の診察・治療を業(職業)とする人」とある。両者は、世間でも同じ意味で呼ばれることが一般的だ。

 今回、私は悪性腫瘍ジストを生きる中で、それらの意味を若干異なるものとしてとらえるようになった。

 医師という言葉は資格的なものを表し、医者のそれは人間的なものを表すように、私には思える。医師国家試験はあるが、医者国家試験はない。医者の不養生とは言うが、医師の不養生とは言わない。さらに言わせてもらえるならば、医師は治療を施すという意味において、患者と対等な立場ではない。もちろん医者もそうなのだが、医者は医師よりも僅かだけ患者に近づいた立場に感じる。

 患者は弱い立場にいるから、たとえ医者がどんなに患者目線になろうとしても、それは土台無理な話である。「患者と同じ目線で」あるいは「患者の身になって」診療にあたるべし、などと学生時代や研修医時代に教えられたことを思い出すが、今の私にはむなしい教えだ。

 どれだけ医師が患者に近づこうとしたところで、さらに患者はその視線を医師よりも下げていく。病を患うことは、その人の立場を下げるものだからである。弱い立場にいる、そして、そこにいることを強いられている。悪性腫瘍などの大病であれば、なおさらだ。医者はそのことをわかって、診療にあたればいい。

 いつまで生きられるかわからない。だが、これからも生きられる限り、ホスピス緩和ケアの「医者」として、がん患者とその家族に関わっていきたい。「患者とその家族にとって、医者の力は大きい。彼らはその命を、他ならぬ医者に託すのだから」  もしかすると、これが最大の気づきかもしれない。

 なぜならば、私は医者だから。

 

この本の内容は僕に問いかける。

僕は教員という立場に胡座をかかず、子どもや保護者に真摯に向き合えるのだろうかと。

 

もし自分が目の病いになったとしたら、

そのときに僕はどんな態度を取るのだろうか。

そんなことを考えた。