メガネくんのブログ

何となく日々思ったことを書いていくブログです。教育や本の感想なんかも書いてます。表紙の画像は大体ネタです。

グラデーションとカテゴライズ

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「私とあの人は違う訳ではなく、グラデーションで地続きになっている」という言葉から考えた話。

 

僕は長らく盲学校という見えの困難さを抱える子たちと関わる世界にいた。

働く前の盲学校は遠い世界だった。

白い杖をついている人が視覚障がいの人だというのは知識としては知っていなかったけれど、街中でそんなに見かけた記憶がなかった。

でもそれは僕が自分の世界を閉じてしまっていたからだ。現に、盲学校で働きはじめてから白杖ユーザーを頻繁に見かけるようになったけれど、それは僕が視覚障がい自分の世界の中にあると認識するようになったからだ。僕が働きはじめた瞬間から白杖が記録的に売上を伸ばしたわけではない。

 

視覚に障がいがあると言ってもいろいろな段階がある。盲学校が対象としている子は、幅は広いけれど概ね矯正視力0.3以下の子たちだ。眼鏡ユーザーの僕自身、眼鏡を外すと視力は0.2程度だ。そこから概ね点字での学習で切り替えるべきだと言われることの多い0.02や0.01やそれ以下、目の前の指の数が識別できる指数弁、目の前で手を降ったかどうかがわかる手動弁、光の明るい暗いがわかる光覚、光がわからない全盲といろんな段階がある。視力だけでなく、視野が欠けている子も色の区別が難しい子も眩しさが苦手な子も暗さが苦手な子もいる。そんな見え方のグラデーションは盲学校の子どもたちから眼鏡をかけている僕、視力8.0のマサイ族までグラデーションで地続きになっている。

 

僕の中でグラデーションという言葉は、虹を連想させ、それは自閉スペクトラム症に繋がる。自閉症と呼ばれる人たちの特性や傾向を多くの人が少なからず持っている。その色が濃いか薄いかの違いがあるだけだ。

それは見え方だけではない。学力やテストの点数、走る速さや顔の美醜、身長、体重、体型、頭髪の薄さから脚の長さ、本を読むスピード、優しさ、決断力、読んだ本の数、脳の認知機能や喧嘩の強さまで全てはグラデーションになっている。

 

一方でヒトはカテゴライズして自分の世界を構築して生きている。世の中の大半で基準になるのは絶対的な(そんなものがあるのかどうかはわからないが)グラデーションではなく、自らの周りのコミュニティ内での相対的な位置だ。自分が尊敬する彼と地続きなのは納得できても、見下しているあの子や大嫌いなあの先輩と自分が地続きなのは認め難いものなので、自分とは違う世界のカテゴリーに分けてしまうのだろう。そうやって小さな世界でランクづけをして自分の位置を確かめるのだ。

 

なんとなくだけれど、受験や塾でバイトしていたときの、偏差値自体はグラデーションなのに、東大京大から国公立や早慶関関同立、マーチからFランまでそれぞれにカテゴライズされ、それはとてつもない差があるように思えてしまうアレを思い出す。でもあの偏差値一覧を見れば、意外と近いところや学部によっては逆転していたりもするのに。

 

このカテゴリーという宿命からはなかなか逃れられないのかもしれない。それならば、少しでもカテゴライズした自分の世界を広く、多様性のグラデーションに近づけられるようにするしかない。月並みな言葉だけれども、世界は広い。僕もあなたも世界の端は、中世ヨーロッパの世界観のように断絶しているのではなく、誰かの世界と繋がっているのだから。