メガネくんのブログ

何となく日々思ったことを書いていくブログです。教育や本の感想なんかも書いてます。表紙の画像は大体ネタです。

自由の相互承認をする場としての学校を模索する

f:id:megane_kun_ha107:20210810131428j:image

本の感想。

 

『勉強するのは何のため?(苫野一徳)』という本を読んで考えたこと。

 

学校は学ぶ場であり、「なぜ学ぶのか(もちろんその問いに対して唯一無二の正解はない)」けれど、「自由になるため」という筆者の意見には同意する。

知識を得ることは大事でない訳ではないけれど、多くの知識を僕たちは学校を出てから失っていく。

でも、そこで学んだ考え方の枠組みや自分に合った学び方を使い続けるのならば、忘れることはない。

探求型の学びが増えていくだろうという筆者の意見の裏には、そういった考え方や学び方を身につけていく必要性があるのだと思う。

 

そんな学び方に関しては教員として意識してきた面があるものの、自由の相互承認をする場ととしての学校を深く捉えたことはなかった。

 

自由を求め、自由のために終わらない争いを続けてきた僕たち人類が争いを止めるためには、自分の自由を主張するだけではいけない。相手の自由をふくめたお互いの自由を尊重することが、争いを止めることに繋がる。

生まれや階級別の学びの場ではなく、いろんな子が同じ場で学ぶ意義がそこにある。

『僕はイエローでホワイトで、ちょっとブルー』というイギリスの底辺中学校で学ぶ日系人ハーフの男の子についてのエッセイにあった、「多様性はややこしい」から「ない方が楽」だけど、「楽ばっかりしてると、無知になる」というような言葉を思い出す。

お互いに自由があることや、お互いの好きなものや嫌いなものが違って、だから当然、感じ方や価値観も違うという当たり前のことを知らないといけないのだ。

それを知らないということは、それだけで罪になり得るのかもしれない。

もちろん、別にみんながみんな仲良くする必要なんてない。みんな仲良くなんて理想であって、実際は幻想だ。

 

だから今の閉鎖的な学校で、逃げ場のない状況を流動的にしたり、相互承認以前の信頼を失わせるいじめや体罰が起こりにくい仕組みや仕掛けをつくっていかないといけない。

信頼なくして承認はできない。

 

そんな自由の相互承認をする場としての学校の在り方を考える。

校則や厳しい指導で縛るのではなく、信頼することや衝突や対立、あるいは違いを知ることを通して子どもたちがその相互承認の難しさと大切さに気づけるような場所を目指すために。

それは学校から先の、今の世の中にある閉塞感や不満なんかを打ち破ることに繋がるのだと思いながら。