本の感想。
『ブッダが教える愉快な生き方(藤田 一照)』という本を読んだ。
いろいろなことを示してくれる内容があった。
1つは学び方について。
私が大学生の頃に、教育哲学者の林竹二先生(一九〇六 ~八五)がこんな印象的なことを言っておられました。
「学んだことの証しは、ただ一つで、何かがかわることである」(『学ぶということ』林竹二著 国土社)
学校的な学びとは、知識を得ることと同義です。しかし、林先生の主張では、学ぶことは、自分自身が変わること。つまり、何かを本当に学んだら、「それまでの私」ではなくなって、「新しい私」がそこに生まれるということです。
たとえば、自転車に乗れるようになったら、かつての「自転車に乗れなかった自分」には戻れませんよね。乗れないフリはできますが、本当に乗れない状態には戻れません。なぜかというと、「私」そのものが変わってしまったからです。
学びとは知識を得てお終いではなく、学んだことで自分自身が変容する体験だという内容は、僕自身が思い描く社会科の内容、考え方のフレームを学ぶという内容に重なる気がする。
以前、知り合いの小学校の先生からこんな話を聞きました。遠足のとき、その先生が道端の花を指して「これは ○ ○草だよ、知ってる?」と聞くと、「うん、図鑑で見たから、もう知ってるよ」と答える子どもが多いそうです。そして、もっと近寄って見たり、手で触れたり、匂いを嗅いだりはしません。その花のことを図鑑で覚えただけで、もう知った気になっているのです。
という内容からは、みんぱくの広瀬浩二郎の語る、さわる文化への招待や、見常者と触常者といった言葉が浮かんでくるし、先日読んだ『わかったつもり(西林克彦)』という本にあった、「わからないよりもわかったつもりの方が問題だ」という言葉も連想する。
そして自分は子どもたちにそんな授業ができているのかと振り返る。
2つ目は「する」のではなく、「ある」のだということについて。
ドゥーイング・モードからビーイング・モードに切り替えていくためには、余計なドゥーイングを止めていく必要があります。それを英語では、「元の状態にもどす」という意味の接頭辞( un)をつけて、アンドゥーイング( undoing)と言います。
坐禅はやることを増やすのではなく、最大限減らしていくことで、「仏のかたよりおこなはれて」くることを繊細に感受する営みなのです。
自分で全てをするのではなく、ネガティブ・ケイパビリティ=しないこと、つまり、思い通りにならないこと思い通りにならないままに、未知なることを未知なるままに受け止める、そんな態度が根底にあるから、学び、変容していくことができるのかと考える。
そしてこんなところでネガティブ・ケイパビリティが出てくるなんて。
『ネガティブ・ケイパビリティ 答えの出ない事態に耐える力』 - メガネくんのブログ
いろんな本で得た学びが、こうやってつながっていくのを発見する瞬間はとても面白い。
3つ目はいろんな困難を楽しむための工夫について。
中でも筆者が体験した、出羽三山の山伏修行、二泊三日で私語は一切禁止。唯一、発することを許される言葉が、「受けたもう」という内容。
これからいろんな困難が出てくるたびに「受けたもーう」と心の中で唱えたら…いろんなことの見方が変わっていきそう。
人前に立って緊張するときに心の中で唱える「ショートコント」に引き続く役立ちワードになりそうだ。
そんな話を通しながら、ブッダがやったからとか言ったからではなく、どう在ったのか、そして自分がどう在るのかが大事なのだろうと思う。
それはブッダの部分を他の人の名前や権威に置き換えても同じだ。
とりあえず僕は「受けたもーう」がとっても気に入ったので、嫌なときはこれを唱えながら、全心身でいろんなものを体感したいと思う。
あぁフロアバレーボールやってないなぁ。