「世の中は需要と供給で成り立っている」というJ先輩の話から。
多くの方が中学校3年生の社会科公民分野で、アダム=スミスや神の見えざる手、需要供給曲線や均衡価格などの言葉とともに習った内容であろう「需要と供給(需給関係とも)」
ようは売る人と買う人のバランスによって値段が決まるという話だ。
これを恋愛に例えてみる。
平たく言えば、誰もが相手を選べるほどモテるわけではないし、自分の求める相手に振り向いてもらえる訳でもないのが多くの人にとっての現実だ。
ならどうするのか。
ただそのままで嘆いていても、白馬の王子様的な存在が現れることはそうそうないだろう。
なら方法は2つ。
自分が求める相手の理想に合わせて自分を変えていくのか(これが相手の需要に合わせていくということ)
もしくは、
自分を求めている相手を求めるのか(自分への供給に応えるということ)
前者の相手の需要に合わせていくことを考えるなら、入念なリサーチが必要になるだろう。世の中では自分に投資ということも言われるが、それが求めている相手の需要に合っているのかを考えないと徒労で終わってしまうだろう。
僕自身も好きになった子に対して、何もリサーチせずに猪突猛進でアタックして振られた経験がたくさんある。
就活の企業研究のように入念なリサーチが必要なのだ。
この相手の求めているものを把握して、それに自分を合わせていく(高めていく)というのは、王道とも言えるやり方かもしれないが、背伸びしている自分がしんどくなるかもしれないという欠点もある。等身大の自分を一度隠してしまうと、伝えるべきタイミングが難しくなってしまうかもしれない。
後者については、相当な美女やイケメンでもない限り万人からモテるということはなかなかないだろう。
しかし、世の中にはニッチな需要はある。
僕自身はコンパに行って、サラダを取り分けている女の子(自分も取り分ける側なのだけれど)に比較的需要があるようだ。
あとは昭和の男前顔らしいので、母親世代にはかっこいいと言われる(今の世の中では主流のモテ顔ではない)みたいなのがある。
見た目だって、趣味だって、性格だって、万人に受ける人がほとんどいないように万人と合わない人はほとんどいない。
そんな風に自分を分析して、自分にニーズがある人を探していくのが、供給パターンだ。
ただし、自分を求めてくれる相手が、ま自分の求める理想像と同じとは限らない、というか大抵は異なる。
妥協という言葉が適切なのかはわからないが、それを受け入れられることができるのかどうか。
こんなふうに人は需要と供給の狭間でバランスを取りながら、カップルを成立させていく。
嘆いていても白馬の王子様がやってくることはまずない(だからこそ人はそんな寓話に憧れを抱くのだろう)。
でも、白馬の王子様を射止めるために分析とトレーニングなどによる向上に勤めることや、白馬の王子様ではなく近くにいる自分を求めれてくる人を探すことはできる。
そうやって需要と供給の可能性を探ることが、付き合うという釣り合いを見出すことに繋がるのかもしれない。