人は劣等感や不平不満、苛立ち、罪悪感とは無縁では生きていけない。
誰しもが多かれ少なかれそれらを抱えながら生きている。
でもそれを溜め込みすぎると人は駄目になる。
どこかでそこ溜め込んで重く固まったこころの声を叫ばないと…。
昔、僕は優しいという言葉に憧れながらも、自分にはそれは似つかわしくないと拒否するという、ひどく厄介で矛盾したコンプレックスを抱えていた。
そんなときに漠然と王様の耳はロバの耳の穴になりたいななんて考えていた。
王の耳がロバの耳であることを知ってしまった理髪師だが、口止めをされた苦しさのために、森の中の葦に向かって「王様の耳はロバの耳」と叫ぶと、葦がその言葉を言うようになる。それを聞いた王は激怒し、言っている者を打ち首にするよう命じる。しかし、葦が言っていることを知ると恥ずかしくなり、ロバの耳を晒して生きるようになった。
Wikipediaで調べてみると本当は穴じゃなくて葦だったみたいだ。
まぁいい、僕が幼い頃に聞いた話では、理容師は大きな穴を掘ってそこに「王様の耳はロバの耳ー!!!」と叫んだのだ。
理容師の秘密を抱えきれず叫んでしまう気持ちはわかる。
誰しもが愚痴や秘密や押さえきれない想いを抱えているのだ。
それを誰かと共有できれば、その人の心は少し軽くなるんじゃないだろうか。
それは素敵な考えのように思えた。
学生の頃はそれでよかった。
村上春樹の小説に出てくる「僕」のように人の話を率先して聞き続けた訳じゃないけど(残念ながら火星の話は聞いたことがない)、それなりに人の悩みや相談を聞くことが多かったように思う。
でも働き始め、それなりの立場につかされるようになってからそう上手くはいかなくなった。
組織の中で全員が同じ方向を向くというのは理想かもしれないが、公立学校の教員の世界では御伽噺みたいな話だ。
コチラを立てればアチラが立たず、アチラを立てればコチラが立たない。そして八方美人はみんなから愛想を尽かされる。
みんなの話を聞く穴になろう と思っていた僕は、愚痴や不平不満不満の終わりのなさを知らなかった。
そして穴にも許容量があることをわかっていなかった。
童話の中でも、穴は秘密を抱えきれず、漏らすどころか大声で伝えてしまったというのに。
クマのプーさんに出てくるイーヨというロバのぬいぐるみのことを考える。
他のキャラクター、前向きで刹那的で悩みなんてないような彼らとは違い、イーヨの疑り深く否定的なモノの見方は嫌いではないのだけれども、その背景にはこの王様の耳はロバの耳の教訓があるのかと疑ってしまう。
今でもそんな王様の耳はロバの耳の穴の役割、周りのみんなの心を軽くする働きに対する憧れはある。が、同時に僕自身の心の重さも考えないといけないと思う。
支えてくれる妻にそんな気持ちを打ち明け、支えてもらうことはあるし、とても感謝している。
でも、一人で誰か心の重りを全て支えることはできない。
一人で全てを抱え込むこともできない。
だから、誰かの穴に抱えきれないナニカを小声で話しながら、僕らはそのナニカを背負ったまま生きていくのだ。