本の話。
『友だち幻想(菅野仁)』を読んで思ったこと。
最近読書熱がじわじわときている。
僕はビブリアというアプリで読んだ本を記録している。そのアプリでは、月ごとの読んだ冊数を表示できるのでわかるのだけど、全然読まなかった月の後には、今のような読書への波がやってくるのだ。
「友だち」と聞くと、僕は、様々な、いや歴代のとでも言うべき顔が浮かんでくる。
保育園、小学校低学年から中学年まではクラスの友だちや近所の友だち、小学校のミニバスと中高はバスケ部の友だちが中心に、でもバスケ以外の関係の友だちもいて、それから大学時代のサークルやゼミやバイト先、働き出してからの職場といろいろな友だちがいた。
もちろん過去形で書いているように、全員と今も繋がっていて、頻繁に会ったり連絡を取ったりするわけではない。
35歳になった今も繋がっている友だちはそんなに多くはない。
でも、あの頃は、そんな密な関係がずっとずっと続くのだと、勝手に思い込んでいた。
友だち幻想。
1年生になったーらー、1年生になったーらー、とっもだち100人、でっきるかなー
色々と経験を重ねてきた今は、友だちは数が多ければいいというものではなく、ましてや誰とでも仲良くなるということが理想であっても、現実には極めて難しいことだという現実をわかっているつもりである。
それなりの機微や配慮が必要なこともわかっている。
自分は自分、他人は他人。
当たり前のことなのに、同じところを見つけて喜んでは、違うところにドキドキするという一喜一憂を繰り返していた。
特に中学、高校、大学の頃は、友だちという幻想を追い求め、そこから外れることを極端に恐れていた(もちろん、思春期とはそんな時期なんだろうと思うのだけれども)。
そんな幻想に縛られなくてもいいんだよ。
この本は、そう優しく伝えてくれる。
理想の友達というのはプラトンの言うイデアのようなもので、心の奥から渇望しつつ、現実にはないその影を追い求めているだけなのかもしれない。
同時期に、『ひとりぼっちを笑うな(蛭子能収)』という本も手に取っていた。
皆が皆、この本のように人と人との関係性を割り切れるものではないのだと思う。
でも、ひとりぼっちもありなんだなと、背中を押してくれる。
僕も教員という仕事柄、友だちとの関わりの中のトラブルに対処しなければならない場面に遭遇する。
中にはみんな仲良くをお題目ではなく、現実の目標に掲げる教員もいて(捻くれた見方かもしれないけれど、そういう人は、大抵、すべての大人と仲良くできてはいない)、なんだかなと思う場面もある。
他人は他人、自分は自分だし、このどうしても他人と関わらずにはいられないことの多い今の世の中で、みんな仲良くは難しいのではないかと僕は思う。
ただ、みんなと仲良くできなくても、少なくとも学校や部活、仕事の間だけは嫌なヤツとも、できる限り関わらずに同じ空間で過ごすスキルなんかは身につけてておいた方がいいのじゃないだろうかと思うので、そういうアドバイスをしたりもする。
一方で、理想の友だちと出会える人は少ない。
でも、巷では本当の友だちが溢れているように錯覚してしまう今の世の中で、頭の中や幻想ではない、生の現実を生きぬき、傷ついた先でしか友だちには出会いないのかもしれない。
書いていて、村上春樹の小説に出てくる鼠を思い出した。
「でも暇つぶしの友だちが本当の友だちだって誰かが言ってたな」と鼠は言った。
「君が言ったんだろう?」
「相変わらず勘がいいね。そのとおりだよ」
暇つぶしにバイクに乗っていき、マンションの下に呼びつけた彼は、今も、変わらず、僕の友人だ。