先日、第3回京都ふれeyeブラインドマラソンからふと考えた話。
2時間弱かけて10キロを完走した高齢の全盲男性。沿道からは最後まで声と拍手で応援し、閉会式を中断しての拍手。
暖かく受け入れる雰囲気がすごく良いなぁと感じた。
感動のシーンだった。
そんなときに先日読んだホーキング青山さんの『考える障害者』という本の内容を思い出した。
それについては、前にブログで書いた。
『考える障害者』どうすればいいのか答えはまだ見つからないけど、お互いのことを知ることがスタートなんじゃないか - メガネくんのブログ
その場ではみんなが暖かく受け入れていた。
でも世の中の人が全員そうとは限らない。
「なんでもっと早く終わらせないんだ」
「時間の無駄だ」
そんな風に考える人もいるだろう。
僕自身は自分が生きる日本の社会は、障がいのある無しに関係なく、お互いの違いや多様性を認められる社会になってほしいと思っている。
一方的に障がい者を感動の対象にするでもなく、神聖視するのでもなく、否定するのでもなく、その人をそのまま受け入れる社会だ。
別に無理に好きになる必要はない。
できば積極的に関わり、みんな同じ世界の同じ社会で生きているんだということに気づいてもらえれば十分だと思う。
そして障がいのある方だから発信できる内容も沢山あると思っている。
僕自身が障がいのフィールドにいるので障がいについての内容が多くなったが、高齢者や子ども、貧困、男女やLGBTなどの少数者についても基本的に同じだ。
でも多様性を受け入れる社会というのは、「少数者を否定する」という意見も多様性の1つとして受け入れるべきなのだろうか。
それとも少数者への否定的な意見は唱えてはいけないのだろうか。
冒頭にあった高齢の全盲のランナーが2時間かけて10キロ走るのを、「不快だから早く終わらせろ」という意見は、多様性の1つとして受け入れられるべきなのだろうか。それとも少数者の人権を侵害するそんな意見は受け入れてはいけないのだろうか。
伊坂幸太郎さんの『死神の浮力』にあった言葉、「寛容は、不寛容に対して不寛容になるべきか」を思い出しました。
不寛容に対して不寛容になれば、それはもはや寛容ではなくなる。
でも寛容だけではどうしようもないこともある。
多様性についても同じ。多様性を保つために、多様性に否定する意見を認めるべきなのか。
ある意見を否定するのなら、それはもはや多様性ではなくなる。
でも少数派を否定する意見を認めるのなら、多様性を保てなくなる。
なんだかまたモヤモヤだ。
モヤモヤモヤモモヤモヤモヤモモヤ。
みんな分かり合えればいいのだけれど、わかり合うのは難しい。
モヤモヤモヤモモヤモヤモヤモモヤ。