メガネくんのブログ

何となく日々思ったことを書いていくブログです。教育や本の感想なんかも書いてます。表紙の画像は大体ネタです。

子どもにつけさせたい力 教わるのか学ぶのか

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僕は盲学校で働いている。

目の見えない子や見えにくい子がいる学校だ。

見えないということのがどういうことか、実感するのはなかなか難しい。

多くの人が想像するのは、今、見えている自分が突然見えなくなった姿であって、ずっと見えない・見えにくいまま生きてきた人の姿ではないからだ。

 

見えないということはいろんなことの情報が伝わらないということである。

耳で言葉は聞こえる、でも具体的な内容は言葉ではなかなか伝わらない。

手で触ればわかる、でも触ってわかるためにはゆっくりじっくり触る時間が必要だ。

だから聞いたことはあるけれどよくは知らないことを、めんどくさいので「知っている」と答えてしまう(本当に本人が知っていると思っている場合もある、どんな言葉でもそうなのだけど、知っているのレベルは人によって違うのだ)。

 

僕の職場での話だ。

ボウリング大会というものがある。

文字通り、ボウリング場へ行き、ボウリングをする。

生まれたときから全く見えない子もいるので、ボウリングを知らない、聞いたこともない子も沢山いる。

ある教員から「ボウリングがなにかを知らないのに体験するのは意味がないのではないか。事前にボウリングとはどんなものか、実物のボウリングピンを触ったり、レーンの長さを確認したりして体験してからボウリング大会を迎えるべきだ」という意見が出た。

最初は「確かにその通りかもしれない、本人がわかるようこちらが経験させてあげるべきだな」と思った。

しかし、少し時間が経つと考え方が変わってきた。

確かに、見えない子たちにとって、実物を触って経験するということはとても大事なことだ。

学校だけでは限界があるのだけれど、耳から聞くお話だけでなく、いろんな場で経験することは、見えない子たちの学びにとって不可欠なものだ。「生活経験を充実させてください」と僕たちは保護者の方にお願いする。スーパーに買い物に行くときに、いろんな野菜なんかの売り物を触る、どこの産地でいくらくらいなのかを伝える。あるいは釣りにいって釣った魚を触らせる、捌く。野菜を棚から育てて収穫するのもいいし、川や海で泳いだり、バーベキューをしたり、ライブやスポーツの試合に行くのもいいだろう。

でも、果たして、「事前に全てのことを知ってから体験するなんてことができるのだろうか」

 

これからの教育についての本を読むと、多くの本でこれからは学びのあり方が変わると説明されている。

今までの学校で学んだ知識や体験を、銀行の預金のように少しずつ引き出していく時代ではもうないとされる。学んだはずの知識や体験が目まぐるしく変化するスピードの中で役に立たなくなる時代なのだ。

だからこれからは料理教室型、学ぶための基礎・基本とやり方を身につけて、知識はその都度レシピ本を読むように(あるいはクックパッドで検索するように)、新しく仕入れて自分のものとしていく。そんな学び方が必要になる時代だと。

 

では見えない子たちにとってはどうか。

経験する機会を増やし、生きた経験・知識とするための体験が必要なのは変わらない。

でもそれと同じくらい大事なのは、よくわからない、知らないことに対して、「それよく知らない(わからない)んだけど、教えてくれない?」と本人が自分からから聞いて学んでいく姿勢は、それに勝るとも劣らず必要なのではないのか。

全てが全てそうあるべきだとは思わないけれど、わからないものや知らないものを、わからないまま、知らないまま体験する。自分からいろんなことを聞いて教わって学ぶ。もしくは訳もわからないままに楽しむ。

そんなことを経験する場があってもいいんじゃないかな。

そんなことを考えました。

僕たちの環境設定や関わり方も大事だけれど、僕たちが関わる子の人生を生きていくのはその子自身。その子が悩んでぶつかって選んで決めて進んでいくものだと思うから。