『ローマ人の物語(塩野七生)』で出会って以来、心に残っている言葉がある。それは、ユリウス・カエサルの言葉だ。
人間ならば誰にでも、現実のすべてが見えるわけではない。多くの人は、見たいと欲する現実しか見ていない。
『R帝国(中村文則)』という本を読んだ。
筆者の描写は生々しいほどにリアルに感じる場面があり、特に『教団X』の人間の意識についての説法の場面は、ちょうど『生物と無生物の間(福岡伸一)』(教団Xの参考文献になっている)を読んだ直後だったということもあり、僕の中に深く残っている。
この小説はいわゆるディストピアが描かれたものだ。それは現実のようでもあり、お伽話のようでもあり、なにかの比喩のようでもある。
詳しい内容の話はしない。
話したいのは、人の「意識」についてだ。
いくつかの内容を引用する。
幸福とは閉鎖である。鈴木タミラは著作の中で書いている。
『幸福とは、世界に溢れる上や貧困を無視し、運のよかった者たちだけが享受できる閉鎖された空間である。貧困者たちからその利益を強奪してまで生きる価値はこの世界にあるのだろうか。その行為は、我々の人生、人類の生活そのものに染みをつけ続ける。戦争を仰ぐ者たちのプロパガンダを破らなければならない。戦争の裏にある利権の流れに目を向けなければならない。何か事が起こる時、それにより利益を得るものがその首謀者の一部である可能性が著しく高い。
戦争をしなくても我々が貧国から様々に搾取しているのを忘れてはならない。我々が国内で物を豊かに安く手に入れることができるのは、つまりそれだけ貧国の労働者達が劣悪な環境で低賃金でそれらをつくっている可能性が高い。我々は様々に巧妙に他国から搾取しながら、国内で愛や友情や夢を語っている。』
真っ直ぐな言葉。彼女がこの国で生きるのは、難しかっただろうとサキは思う。人間が自信を失う時、もしくは強くなりたい時、強い国家を求めやすい傾向があることも鈴木タミラは書いている。
「お前は人間というものがわかっていない」
映像の加賀が唇をさらに歪める。今度ははっきりと笑とわかった。
「人々が欲しいのは、真実ではなく半径5メートル幸福なのだ」
…
国民に最も必要なのは、富、優越感、良心の満足、そして承認欲求だ。
……わかるだろうか?我々"党"は、その全てを国民に与えている。まず良心だが、人々は架空の世界にいたいのだよ。自分たちの経済活動は貧国を苦しめていない、自分達の戦争は悪い奴らを倒すために違いないというファンタジー。…たとえ他国の富を強奪し自国の大企業を栄えさせるための経済活動であっても、国民達が使う資源を巧妙に強奪するための戦争であっても。
だが国民達には、一切そうは知らせない。真実は我々"党"が被るのだ。我々"党"は国民の代わりに悪を成し、その罪悪感と苦しみの全てを被っていく。そして国民達を無垢のまま守るのだ。それが我々"党"がずっとしてきたことだ。
人々は戦争の可否、選択の可否を、その良心の判断を全て我々"党"にもう預けている。彼らの良心はつまり、自律から他律へともう変わっているということだ。
…
これは架空の世界の話だ。
でも何かの風刺や寓話のようであるだけでなく、この僕の生きる世界の延長上にそのリアルな息遣いを感じる。
いつかこんな時や場所が存在するのだろうか。
人が自分の見たいと思う現実しか見ないのならば、聞こえのいい、見栄えのいいものだけで形づくられたものは現実と言えるのだろうか。
真実を受け入れず、キレイな作り物だけを受け入れるヒトたちは、考えることをしないのだろうか。
人々が半径5メートル幸福だけを求めるのなら、真実に価値はあるのだろうか。
少なくとも描かれる多数のヒトビトには、見たくない現実を想像する力が欠如している。
想像力
その言葉は、村上春樹の小説の台詞を思い起こさせる。
…そしてこの国ではな、理解できる範囲が狭い奴ほど大きな権力が握れるようになっているんだ。それは狭ければ狭いほどいいんだ。いいか、マミヤ中尉、この国で生き残る手段はひとつしかない。それは何かを想像しないことだ。想像する、ロシア人は必ず破滅する。私はもちろん想像なんかしないね。私の仕事は他の人々に想像をさせることだ。それが私の飯の種だ。そのことは君もよく覚えておくといい。少なくともここにいるあいだは、何かを想像したくなったら、私の顔を思い出すんだな。そしてこれはいけない、想像するのは命取りだって思うんだよ。これは私の黄金の忠告だ。想像するのは誰か別の人間に任せることだ」
…
「君が私を殺したがっていることは前からわかっていた」とボリスは静かに言いました。「君は自分が私を殺すところを何度も頭の中で想像していた。そうだね?私は以前に君に忠告したはずだ。想像することは命取りになるとな。しかしまあいいさ。どう転んでも君には所詮私を殺すことはできないのだから」
彼らも生き残るために、想像することを放棄してしまったのだろうか。
何かを信じて生きていくことが悪いことだとは思わない。でも、何かを盲目的に信じ、疑いを抱くことなく享受することを僕は良しとはしない。
見たくない現実を受け入れ、少しでもできることやるべきことをするような存在でありたいと思うから。もちろん自分に全ての現実がわかるわけではないのだけれども。
そして僕がみている現実が、本当の現実なのか、それとも僕が見たいと欲している現実なのかはわからないのだけれども。
でも、果たして、それが命取りになる世界になったとき、僕はどんな選択をするのか。
そんな問いを喉元に突きつけられるような小説だった。