高校生の頃に読んでいた『キノの旅』というライトノベルにこんな話があった。
主人公が訪れたある国では過去に他人の気持ちがテレパシーのように分かる薬が発明され、それは素晴らしい、我々はこれで分かり合えるんだと国民全員がその薬を飲んだ。だが、下心や劣等感、怨み嫉みなど言葉には出さない、出す必要のないことまで伝わってしまい、国が大混乱に陥った。その結果、薬の効果が届かないよう、みなが距離を取り別々に暮らすようになったのだ。
「相手の気持ちを考える」
そんな無理難題を言ったり言われたり、求めたり求められたりすることがあるだろう(皆さんはわからないが、僕には無理難題という自覚がある)。
でも、架空のこの相手の気持ちが全てわかる国の話には、妙なリアリティがあった。
僕たちが「相手の気持ちを考えよう」なんて言うときは、大抵自分の立場から発しているから言える訳で、それを言われている、「相手の気持ちを考えていたいと周りから思われている相手の気持ち」は本当に考えているのだろうか。そこまで考えて言うとするなら、伝え方が変わってくるはずだろう。
相手の気持ちがわかったら、今までと同じような言動のままでいられるだろうか。いや、無理だろう。
小心者で相手の顔色をすぐに伺ってしまう僕は、相手の感情に耐えられないだろう。怖くて怖くて縮こまり、何もできなくなるだろう。
もちろんこれは僕の立場からの想像で、それぞれの人の思考の方によって、想像しうる相手の感情は変わるだろう。
もちろん、それはあくまでも自分の想像で、現実にいる相手の生の感情とは違うはずだ。
そして自分自身の心の声が周りに聞かれていたらと考えると怖くなる。良い人そうがウリの僕はそんなにイイヒトではない。
例え相手の気持ちが伝わっても、僕の怒りと他者の怒りは同じとは限らない。にもかかわらず、同じ言葉で同じ感情を共有できていると感じるのが人のメリットでもあり、デメリットでもあるのだろう。
感情、こころは目に見えないから色も形も質感も大きさもわからない、手でも触れない、音も聞こえない、味もしないからだ。
でも確かにあると思えるもの、それがこころ。
わからないが故に慎重になることもあるだろうし、逆に自分の感情を優先して押し付けることもあるだろう。
どちらを選ぶのかはわからない。
でも、この社会の中では相手の気持ちを考えざるを得ない場面が多い。相手の気持ちを考える練習をする必要がある。
でも、だからこそ、「相手の気持ちを考える」という無理難題を押し付けている感覚を忘れてはいけないのだと思う。少なくとも自分自身はそうありたいなと思う。
僕には相手の気持ちはわからないけど、相手の気持ちが全てわかる世界で生きられるほどタフではないので。