メガネくんのブログ

何となく日々思ったことを書いていくブログです。教育や本の感想なんかも書いてます。表紙の画像は大体ネタです。

考えられない大人たち 神戸市小学校教員のイジメ事件を振り返って

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まずはじめに、イジメという言葉について。

すごくふわふわした言葉だし、本人がイジメを受けたと思ったらイジメというのもなかなかにわかりにくい。

イジメの問題は、イジメではなく、傷害や暴行、盗難、恐喝といった個別の内容が犯罪にあたるかどうかという時点で考えた方がいいんじゃないかと思っている。

 

で、なぜあんな行動をとったのか。

「考える」ことをしなかったからではないか。

教員という仕事は、ある意味では考えなくても済む仕事だ。

教えるべき内容は学習指導要領や(それを読まなくても)教科書に掲載されているし、毎年度同じ学年や教科を教え続けるなら、教え伝える知識は繰り返し強化され、予習や準備なしに授業ができるようになってしまう。

生徒指導にしたって、行事にしたって、毎年そんな変わるものではないし、習慣的にできるようになってしまう。

そんな学校で教える、当たり前や普通、常識を、「そう決まっているから」と押し付けるのではなく、「なんでなんだろう」ともっと掘り下げて考えることが、僕たちが囚われている常識の枷をとりはらうことにもつながるし、子どもたちの理解や考える力を伸ばすことに繋がるんだと僕は思うのだが、そんなことしなくても回せてしまうのがこの仕事の怖いところだ。

 

そしてマインドコントロールという側面もあるのではないだろうか。これについては、岡田尊司さんの本がとても参考になった。

 

マインドコントロールと言っても洗脳するとかそう言う話ではなく、人間は知らない間に思考が固定化されてしまうという話だ。

本の中ではこれをトンネルと呼ばれていたが、学校という場所はある意味では閉鎖的な場所で、自分から意識して外へ学びに行ったり、調べたり、考えたり、振り返ったりしないと、思いの外、変化のない場所だ。

そんな変化のない場所、外の景色の見えないトンネルのような場所に居続けると、最初は疑問に思っていたことにも疑問を持たなくなり、思考が固まってしまう。

どこの学校や企業でも、前からずっと続いてきた伝統的な独自ルールがあるだろう。それも、理由があり、検討した上でのルールならいいと思うのだが、大抵は「前までそうやっていたから」という理由になるのかわからない理由が大義名分になり、そのまま続いてしまう。

これがトンネルの影響だろう。それに疑問を持たなくなるのだ。

 

そうならないためには「考える」ことが大事だ。疑問を持つ必要がある。

 

当たり前

常識

普通

伝統

 

もちろん同じ社会に生きる上で知っておくべき部分、共有しておくべき部分はあるのだろう。

でも、そんな言葉の前で思考を停止してしまうと考える力がどんどんなくなっていくんじゃないだろうか。

 

神戸市の件は、ある意味では高校や大学の体育会系のノリに近いし、それがいいかどうかはさて置いて、そこから学校というトンネルに入り、そのまま外の景色を見ないと、そのノリがずっと続いてしまうかもしれない。

自分のしていることがどうなのか、客観的に見てどうなのかを考えて、振り返らないと恐ろしいことに至ってしまうかもしれない。

主犯格の女帝と呼ばれる人の「可愛がっているつもりだった」というのは、ある意味では本当かもしれず、考えることができていなかった証となるものかもしれない。

 

もちろん外の景色を無理矢理見せるという方法はあるのだろうが、マインドコントロールの怖いところは、思考が固定されてしまうと柔軟性をなくし、今までと違うことに出会うと、都合の良いように解釈、合理化(すっぱいぶどう化)してしまうところだ。

 

そのトンネルから抜け出すためには、本人が考えて納得しないといけないのだが…

さてどうすればいいのだろうか。