ホモ・デウスの読書中。
筆者は『サピエンス全史』のユヴァル・ノア・ハラリ氏。
この中にでてきた虚構の話が気になっている。
人間でもチンパンジーやボノボなど他の哺乳類でも顔見知りで共同体を形成できるのは150人程度らしい。
でも人間はそれよりも大きな集団を形成でき、大勢で柔軟に対応できる。それが人間が他の動物種を支配し、この星で圧倒的な立場にいる理由の1つだ。
それはなぜか。
それは虚構の存在にある。
虚構は、神話や文化、法律や経済、あるいは社会などと置き換えてもいいだろう。
そういう共同主観的なレベルの虚構が、僕たちを1つの社会や国という幻想の元に結び付けているだけに過ぎない。
それもそうだ。
同じ日本に住んでいるというだけで、あるいは同じ学校や職場というだけで無条件に信頼するに足りる理由はあるのだろうか。同じ電車の車両に乗り、隣の席に座ったその人が、信頼してもいい人間かどうかが本当にわかるだろうか。
この虚構は、時間や場所によって異なる。
でも、今この現実にある虚構が虚構だとは僕たちは実感を伴って認識できていない。
そこで思ったのが、みんなが虚構を信じるから集団でいられるのなら、逆に集団を維持するために虚構をより強固なものにしようと上から何重にも塗り固める力があるんじゃないだろうかということ。
テレビやネットの情報も、学校での教育も、本当に客観的な事実だけではない。
そこで伝えられる情報には多かれ少なかれ虚構が含まれている。
そして、社会や国を維持するためにはその虚構をみんなが共有し、信じないといけない。
この社会で生きていくために、共通の仕組みやルールを学ぶ。
当たり前は実は当たり前でない。
でもみんなが当たり前だと思わないと社会は維持できなくなる。
当たり前を当たり前と思うように上書きしていくのも、ある意味では教育に対する社会の要請なのかもしれない。
そう思って少し怖くなった。
特に公民のような内容を伝える前に、一度考えてみようと思う。