「自分の中に芯を持て」なんていう言葉をよく聞く。
夏前の教員採用試験の面接の時期になるとさらによく聞く。「一人前の教員になるためには芯をもってなければいけないんだ」「熱い想いがなければ教員としてやってはいけない」
自分の中に芯を持つこと、自分の考え方や想いをきちんと持つことは大事だと思う。
そうでなければ何が大事なのかわからなくなってしまう。
周りの意見や雰囲気に流されてしまう。
なんとなく惰性でやるのではなく、自分で必要だときちんと理解し、取り組むことを自分で選択・決定してから取り組むなら、その推進力は格段に向上する。
ただ僕は教育という現場で、子どもという相手がいて、その子どもはこちらを選べないという状況では、その芯や想いの強さが危険につながる場合もあると思っている。
芯があるということは、自分を曲げず、あまり影響されないということだ。
それは自分の価値観の押し付けや相手の価値観を否定することにつながる。
想いが強いということは、熱量が大きいということだ。
相手がその大きな熱量を受け止められるかどうかはわからない。
さらに想いが強すぎると、うまくいかなかった時にその想いが裏返ってしまうこともある。
自分の価値観と子どもの価値観が違った時にどうするのか。自分の価値観や社会や世間の常識とされているものを子どもへと強要するのか。幼いうちは力で押さえつけることも可能かもしれない。でも後で手痛いしっぺ返しがくるかもしれない。
僕の考えでは、人は自分が考え、悩み、選択し、納得して決定したものしか定着はしないと思う。幼いうちの家庭での躾や価値観の植え付けはそうではないのかもしれないけど。
だから無理矢理強制しても、結局のところあまり効果はないのではないかと思っている。
もちろん何がどうなるかなんて誰にもわからないのだけど。
また部活なんかでよくあるのが、強すぎる想いが裏返ってしまうパターンだ。
初めのうち、子どもが成長し、こちらの想いに応えてくれているうちはいい。指導者はさらに熱量を注いでいく。
ところが大抵の場合、いつか子どもの成長限界がくる。それは一時的な停滞(プラトー)で乗り越えられる場合もあるし、子どものやる気や能力の限界の場合もある。あるいはスランプの場合もあるだろう。
そうなったとき、想いの熱量が裏返ってしまう。「なんであんなにミスをするんだ、やる気がないのか?!」「俺がこれだけ頑張ってやっているのになんでできないんだ?!」と子どもを責めてしまう。
そんな風になると子どもは追い詰められてしまう。学校という閉鎖空間ではなかなか逃げることはできないし、それまでの部活の全てを完全にデリートして学校生活を送ることは不可能だ。
僕が思うのは、元々の想いが「大会優勝なんかの結果」「目の前の子どもではなく、自分の理想とする子ども像」に向いていると、そんな風に裏返ってしまうんじゃないかということ。
もちろん結果や理想を求めることも大事だと思う。
でも、それは本来は「子どもの成長につながるための」という枕詞がついていたはずだ。
別に芯や想いが必要ない訳じゃない。
ただそうなってしまう危険性があるということを伝えておきたいだけだ。
僕自身、想いが裏返ってしまった経験がある。そのことをすごく後悔している。
上手くいかないときは、まず上手くいかないこと自体を受け入れよう。
そしていろんな角度でアプローチしてみよう。
子どものせいにしても多分何も変わらない。
お互いにしんどくなるだけだ。
まずは自分が方法や環境を工夫してみよう。
「もしかしたらそこがその子にとってのゴールかもしれない。それ以上なにをしても無理なのかもしれない。」その考えも捨ててはいけない。
以上、自分の中に芯や想いを持つことの大切さと危険さについてのお話でした。