メガネくんのブログ

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『加害者家族の話』ほとんど誰も自分がその立場になるとは思っていない

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最近、ツイッターを再開してからネット上の不満や否定(適切な批判ではない)、いわゆる炎上などを理由にリアルでよく目にするようになった。

意見が様々にあることはもっともだと思うし、多様性のある社会を目指して行くなら、否定的な意見だって自由に発信できることは認めていくべきじゃないかと思う。

 

加害者家族についての本を読んだ。

加害者家族 (幻冬舎新書 す 4-2)

加害者家族 (幻冬舎新書 す 4-2)

 

 

 

加害者として逮捕、起訴され、自ら罪を認めた人が非難されるのは仕方のない部分があると思う。日本の法制度上は、罰金や禁錮、懲役、あるいは死刑といった罰でその罪が贖われるべきだという原則があるのはその通りなのだが。

逮捕された段階は容疑者(被疑者)、裁判で起訴されている段階は被告人であり、裁判が終わるまでは罪は確定していないし、冤罪もあるという中学校社会で習う内容を皆が理解しているかどうかは疑問にも思う。

ただ、加害者家族の人権についてはあまり考えたことがなかった。本によると、親子や兄弟だけでなく、遠い親戚でも仕事を辞めなければならないという状況は珍しくないそうである。

加害者本人だけでなく、加害者が未成年の場合にその子の親へも批判が湧いてくるのは心情的にはわかる。僕たちはそのとき「被害者の親という立場」で批判する。子どもが被害を受けた親へ共感し、自分の子どもが被害を受けたときのことを想像して苦しい気持ちや苛立ち、怒りが湧いてくる。批判や意見の表明だけでなく、そこにはマスコミやネットによる個人情報の拡散や祭り上げが待っている。みんな悪いのは加害者、自分たちはそれを批判しているだけと思っているのだろうか。こうなってくるとありとあらゆる粗探しが出てくる。少年事件加害者の父親が謝罪した際、「服装がジーパンにジャンパーで小汚い」という批判があったという話には驚いた。謝罪会見に合わせてスーツに着替える方が優先なのだろうか。「正義という立場」に立てば、何を言ってもいいのだろうか。では、結局どんな謝罪をすれば世間は、皆は許すのか。そもそも世間が風化以外の形で許すということはあるのだろうか?

 

想像してみる。幼いうちの子が成長して加害者になることを。それはすごく心がイガイガ、ムカムカする。親であれば子どものことを100%コントロールできるのだろうか。答えはノーだ。幼い今の段階でも無理だ。そもそも親が子をコントロールできるという考え方は少々傲慢すぎると思う。そう考えると怖くなる。「もし自分の子どもが犯罪を犯したら…」自分や妻だけでなく、兄弟や親戚にも炎上した火は飛びかかるのだろうか。

加害者本人であれ、自分の意思で計画を進めていたケース以外は、「加害者になるとは思ってもいなかった」はずだ。突発的な事故、交通事故などもそう。

みんな自分が「加害者、あるいは加害者家族という立場」になるとは夢にも思っていない。

そこに炎上の原因の一つがあるのではないか。

 

「人間は自分のみたい現実しか見ない」とはユリウス=カエサルの言葉だが、この言葉は人間の核心をついている。

 

加害者だって障がい者だって、自分の世界とは関係ない、遠い世界のことだと思っていないだろうか。

自分が加害者家族になったときのことを考えると、僕は家族にまで否定的な視線を向けることを躊躇してしまう。もちろん被害者やその家族の気持ちを考えないということではない。僕だって自分の家族が被害にあえば冷静でいられないだろう。

 

でもいろいろな立場に自分がなりえる、これらは自分の世界の話だと想像すると、自分の行動を振り返ることができるのではないか。

対象が、自分とは遠い世界で悪の世界、何をしたっていい世界に対してなら、自分の行動を振り返られるだろうか。

 

校内暴力事件でも、労働者の賃上げでも、「その人の立場」の数だけ正義があり、立場が変われば正義もまた変わる。

そして世の中は白黒で割り切れるものは、実はほとんどない。

そのことに気づかないと、多様性を認め合える社会には至らない。

 

まぁこういう白や黒に比べると色の薄い意見は、強烈や白黒の主張の前ではあまり力を持たないのかもしれないけど。

 

ちなみにアメリカやオーストラリアなど海外には当たり前に加害者家族を支援する制度や団体があるとのこと。銃乱射事件の加害者の高校生の少年の実名や写真が公開されたところ、全米各地から電話や手紙が殺到したという。その中身は「いまのあなたの息子さんは一番大切なときなのでから、頻繁に面会に行ってあげてね」「その子のケアに気を取られすぎて、つらい思いをしている兄弟への目配りが手薄にならないように」「日曜の教会に集まって、村中であなたたち家族のために祈っています」などの励ましの手紙だったという。

 

三者の僕はどうすべきなのか。