本の感想。
『ひきこもりはなぜ「治る」のか?(斎藤環)』という本を読んだ。
いくつか忘備録的に。
不登校やひきこもりに関しては、何が何でも再適応すべしという一派と、何が何でも適応から解放させるべしという一派との不毛な対立がずっと続いていたように思います。治療や支援の目標が「本人が元気になること」であるならば、いずれもそんなに色までなかったと思うのですが。
「元気」という目標については、もうちょっと広く応用できるような言い方に直すならば、「より良い状態」と言い換えてもいいでしょう。「どうすれば個人としてより良い状態になれるか」ということに焦点を当てて考えれば、問題解決の方向性はいかに多様であるか、いかにその人それぞれに向いた方向性があると言うことが、もう少し見えてくると思います。
病気の治療と違うところは、元気になるための万人向けのマニュアルなどない、という点でしょうか。「元気」という目標設定は、その意味では「問いの立て直し」と考えることもできます。
学校での子どもへの支援の在り方の光景を思い出します。厳しくするのか、甘やかす(個人的には甘やかすではなくて、環境を整えて支援を充実させることなのだが)のどちらにするのかで揉めるときの、宗派の対立にも似たヒステリックな情景だ。
どちらが正解とは限らないかもしれないが、その子のことを考えているという点では同じだったはずが、いつのまにかイデオロギー上の対立にすり替わってしまう摩訶不思議。
そして話し合いの結果が、英知の結晶ではなく妥協の産物となる確率の高いこと…
赤ん坊にとっての母親は複数います。例えば、一人の母親が「良いおっぱい」か「悪いおっぱい」かという具合に、別々に認識されるのです。目の前の母親がもし泣いていてもミルクをなかなかくれなければ、悪いおっぱいと認識されます。逆に、すぐにミルクを与えてくれれば、良いおっぱいとして認識されます。これは非常に未熟な認識ですが、実はこういう認識は、人間に一生ついて回る認識の一つのパターンなのです。
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お母さんが親切だと子どもも愛情を返します。愛情を返すと良いおっぱいは自分に対してますます優しくなって、そこで良い循環が生じてくるのです。こうして心の中に、良いおっぱいが良い対象として内面化されていきます。
良い対象があることによって、対象の統合が進んでいきます。それまで別々にとらえられていた悪い対象と良い対象が、実は同じ一つの対象であることが認識されていくのです。
そのためにも、良い対処を取り込むと言う過程は欠かせません。良いおっぱいの機能を十分に使うことによって、最終的には対象の統合が起こるということがクラインの主張なのです。
読んでいる別の本にも書かれていたし、今書いているnote記事にもそうなのだけれど、人間は周りの他者をモデルにして自分に取り込んでいる。だから叱るより前に見本となるよう、子どもの攻撃性が気になるのならば親は攻撃性を捨てる。子どもに外に出てほしいのなら、親がまず外に出るなんて関わり方も大事なんじゃないだろうか。
ただし、私の治療は、どのような場合でも基本的に「本人の自発性」を最大限に優先します。本人が自発的に希望したことは、人に迷惑がかかるようなことを除けば、常に優先されるべきです。少しばかり非現実的であったり、危なっかしいようであっても、「実験だから」とダメもとで送り出してみるのです。
実際に始めてみると、どれだけリスクがあって失敗そうなことであっても、本人が自発的に始めたことは結構長く続くことが多いのです。そういうなかから失敗を通じて学習もするでしょうし、さまざまな人との出会いは、コフートのところで述べたような「自己-対象」との出会いとしても、大いに機能するでしょう。
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何かを捜している途中で思いがけず別のものをみつけてしまうことを、「セレンディピティ」といいます。彼らの自発性を尊重することで、そこにさまざまなセレンディピティが期待できるということ、これは経験的にも間違いのないところです。治療の中には、こういう「ゆきあたりばったり」も必要ではないかと、私は考えています。
自分の子育てや仕事上で子どもに手を出しそうになったのを我慢して見守るときのことを思い浮かべます。失敗するのもその子の権利なのだから…。
多くの場合、ひきこもり状態はいろいろな要因が複合した結果なので、誰か一人が犯人とか、この事件だけが犯人、ということはなかなかいえません。不毛かもしれない原因究明に一生懸命になるより、「この困った状況に対してどんなふうに対処しようと試みましたか」「その結果どうなりましたか」「これからどういうふうになりたいと思いますか」などといった方面からのアプローチを試みる方がよいのです。
神田橋さんによれば、患者さんのなかにある、一見「欠点」と思われるような部分にすら、立ち直りのヒントが隠されている、ということになります。
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人を責めてばかりいる人に対しては「批判能力が高い」と考え、拒食症の患者さんに対しては「断食能力が高い」と考えてみるのです。もちろんひきこもりの人に対しては「ひきこもり能力」が高いと考えることになります。これは一見、言葉遊びにみえるかもしれませんが、そうではありません。
例えばひきこもっている人は、一般の若者に比べてコミニケーションには自信がない代わりに、非常に我慢強いことがよくあります。何の娯楽もなくても、お金を使わなくても、お酒やドラックに走らなくても、ときにはひもじくても粗食でしのげるくらい、彼らは我慢強いのです。
そういう能力を一概にして否定してしまうことは、その人の生きるよすがを否定してしまうことです。むしろ、そういう能力を、どんな形で社会生活に活かせるかを考える方が良いでしょう。
長所は短所、短所は長所とよくいうが、その人の尖った部分を削って丸くするのか(その分小さくなるかもしれない)、その尖った部分を使うのか。
それ以外にも、自信はないけれどプライドは高い(と周りからは思われる)ひきこもりの心理や、本人と家族だけでなく第三者との関わりや、公正なルールは第三者の代わりになること、追い詰められればなんとかならずに飢え死にを選ぶなどもあり得ること、そのために親なき後のライフプランもシュミレーションしておくべきなど、なるほどと納得することが多かった。