メガネくんのブログ

何となく日々思ったことを書いていくブログです。教育や本の感想なんかも書いてます。表紙の画像は大体ネタです。

素敵な妄想

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本の感想。

 

『異彩を、放て。(松田 文登/松田 崇弥)』という本を読んだ。

 

ヘラルボニーという会社を立ち上げた2人の物語だ。

「ヘラルボニー」は、アート作品を小物や雑貨など、ファッションアイテムとして商品化しているブランド、社会実験ユニット。知的障害のある作家の新しい収益構造を実現する、持続可能なアートライセンスビジネスで、へラルボニーが契約する国内外の福祉施設で生み出されたアート作品を高解像度でデータ化し、様々なモノ・コト・バショに転用することでライセンスフィーを作家に還元している。

株式会社ヘラルボニー|"異彩を、放て。"をミッションに掲げる福祉実験ユニット

 

 

ヘラルボニーのことを知ったのは岸田奈美さんのnote記事だっただろうか。すぐに検索し、工藤みどりさんの「(無題)(青)」のネクタイに一目惚れしたのを覚えている。

車で聴いていた大好きな仁井姉さん(一位じゃなくてナンバーワン)のラジオで、松田さんたちと話しているときにこの本が販売されているの知って購入した。


僕自身は大学に入って先輩に紹介されて「障がい」と真正面から向き合うようになった。
それまで福祉や障がいに縁がないと考えていた。

いや、正確に言うと養護学級や近隣の施設など関わる場面はあっただけれども、自分ごととは捉えていなかった。

 

そんな僕は、先輩に紹介された障がい児学童(今でいう放課後等児童デイサービス)やガイドヘルパーなどのバイト(後にはグループホームの管理人のバイトも)や、余暇支援、聴覚障がい施設でのボランティア(後には車椅子で聴覚障がいのおじさんとのボランティア旅行も)などを経て福祉の世界へ関わるようになった。

 

そうして関わる中で、それまで見えていなかった障がい者と呼ばれる人たちが当たり前のようたくさんいることを知った。

盲学校で働きはじめてから白杖を持った人たちが急に増えたように感じたように、都会を歩いていると自分のタイプの女性ばかりがいると感じるように、僕たちの脳は意識しているものとしていないものを無意識に選り分けている。

だから意識しないとそこにあってもないように感じてしまうのだ。

縁があって支援学校で働きはじめ、2校目の盲学校で働くようになってからは街中にいる白杖をもった人たちに気づけるようになった。

 

そうして支援学校という場で過ごす中で、僕の中にさまざまな葛藤が生まれくる。

 

できないことをできるようにする教育や、卒業後の進路のためという決まり文句。そして子どもたちがいく卒業後進路先のこと。

 

当初は周りのプレッシャーもあり、子どもたちにちゃんとさせることがその子のためになるのだと、そんな風に信じていた。正直厳しく接することがその子のためになるのだとも考え、あえて厳しく接することもあった。

そこには「できる/できない」で子どもたちを分ける差別的な意識があった。


でも、いろんな経験を経て、子どもたち一人ひとりが独立した人格と個性を持った存在であるのだから、僕にできるのは彼らが前向きになれるように、一歩ずつ進んでいくためのお手伝いをすることだけなのだと考えるようになった。


「なんでできないんだ!」という怒りの感情を手放し、「どうしたらできるようになるのか?どうしたら楽しくできるの?」と考えられるようになってきた。

 

なんだか中学校時代に「スペや」と言って障がいに対して否定的な多数派に身を寄せながら(僕にも少なからずそういう経験はある、今振り返る「ガイジ」という言葉はそれを向けられる側に立ってその歪な鋭さにドキっとする)、でも大学や社会人を通して福祉の世界へ寄つていく松田さんたちを、大学に入ってから福祉、障がいの世界に関わってきた自分自身に重ねながら読み進める。

 

 

本の中で描写されているヘラルボニーと作家さんへの丁寧な姿勢がとても印象に残った。


プリントコピーではなく、丁寧に色彩を再現するネクタイの作り方。

それはるんびにい美術館の職員さん自身が驚くクオリティで再現されたものだった。


本当に本人は自分自身の作品が商品という形で世に出るのを望んでいるのだろうか?と何度も作家さん本人を訪ねる関わり方

なかなか自分の意思や感情を伝えるのが難しい作家さんが、松田さんの持ってきたパソコンの商品案を見にぱっと駆け寄る場面の描写。

 

とりわけ亡くなられた八重樫季良さんが自分の作品で彩られた駅舎を見た誇らしげな顔、そして「地元の芸術家、花巻駅を彩る」という岩手日報の見出しが心に残る。

ともすると一般的には、「これやってあげたらきっと喜ぶでしょ? 今までスポットライトが当たったことない人にこんなことしてあげたら、そりゃ嬉しいでしょ、障害者のみなさん?」という、慈善ステレオタイプに陥りかねません。お仕着せではなくて、本当にその人たちが納得して喜ぶ「幸せ」、それを確かめながら追求して実現していくというのは大きな転換でした。もちろん、結果としてご家族もとても喜ばれています。

 

季良さんの話を読み進めると何故だか涙が溢れてきた。

 

もし僕が関わってきた、これから関わる子たちの作品がこんな風に紡がれ、それが本人にとっての喜びになったら…そんなことを想像してしまう。それはすごく幸せな妄想だ。

 

 

障害は"欠落"ではなく、"違い"だ。
"ふつう"じゃないということは、可能性でもある。
この世には、放たれるべき異彩が、たくさんあるーー。

 

そんなヘラルボニーと共に彩られていく未来から、これからも目が離せない。