幼い頃に祖父母の家への行き帰りにはこの太陽の塔の前を通り、その度に常にこちらを見ているような黄金の顔に怖さを感じつつ、毎回車窓から覗いてしまう自分がいた。
その内部にはもう一つの顔と生命の樹というオブジェがあった。手塚治虫『火の鳥』の輪廻、あるいはセフィロトの樹にも似たような生命の歩みや過去と未来を通して、僕たちはどこにいくのかを突きつけられるような体験であった。
「人類の進歩と調和」がテーマの万博で、こんなカオスで荒々しく生々しいメッセージをぶつけるなんてどうかしている。
でも惹かれるものがあるのも確か。
全てを観た後に降りていく階段の途中に太陽の塔やその制作者、岡本太郎についての説明が掲載されていた。
そこにあったのがタイトルの言葉だ。
芸術は呪術である。
ただそれだけの言葉に鳥肌が立った。
岡本太郎についてはいつくか本を読んでわかったつもりになっていた。
芸術は呪術である。
この言葉は、坂口安吾の『夜長姫と耳男』を連想させる。
好きなものは呪うか殺すか争うかしなければならないのよ。お前のミロクがダメなのもそのせいだし、お前のバケモノがすばらしいのもそのためなのよ。いつも天井に蛇を吊して、いま私を殺したように立派な仕事をして……
「自分の中に毒を持て」という彼の言葉を通して、僕は自分の中の醜く汚い嫌な部分がその毒だと思い、自分を通して岡本太郎という人をわかっていた気になっていた。
そう、きっとわかった気になっていただけだ。
彼の中にあるのは毒という言葉だけで表されない、呪いにも似た宿命的なナニカがあったのだろう。
呪うか殺すかしなければいけない訳ではない。
でもそうやって具現化される芸術があるのだ。
子どもの頃の僕が怖れ、惹かれたものだ。
だからあの道を通るたびに、太陽の塔のこちらを見据えるような眼を覗き込んでしまうのだ。