本の感想。
「親は子に何を教えるべきか(外山滋比古)」 という本を読んだ。
1991年のことだから随分と前の本である。
でも家庭でのしつけの肩代わりを求められる学校やテレビ(今だとインターネットか接続の影響、権威を失った父親など今と通ずるものがたくさんある。
著者が、「三つ子の魂、百まで」「鉄は熱いうちに打て」「かわいい子には旅をさせよ」などのことわざを引き合いに出しながら、権威としての学校・教員の必要性と、家庭教育の重要性を繰り返す。
教育は学校でやるもの、やってくれるもの、というのも、こまった現代の神話である。学校へ入って来る児童は、すでに相当さめて冷えた鉄である。もっと熱いうちに何もしないでおいて、学校へ入るころになってから、さあ、どこの学校にするか、大騒ぎして、願書を出すのに徹夜したというのが、誇り高き教育ママだというのだから笑わせる。
それまで、教育ママは何をしていたのか。すくなくとも、教育をしたという自覚はあるまい。
生まれたばかりの赤ん坊は何も知らないが、熱い鉄ということから言えば、これほど熱い鉄はない。教えることは何でも覚えてしまう。教えたつもりのないことまでも覚える。いちばん大切なのは言葉だから、赤ん坊はまず言葉を覚える。何も知らないよが、二年もすれば曲がりなりにもわかるようになる。すばらしいことである。どうしてこういう奇蹟がおこるのかよくわからない。
その言葉の先生はだれか。言わずと知れたこと、お母さんである。言葉を覚えることでめきめき知恵がついてくる。言葉はいわば精神の母乳である。その栄養が足りないと、三つ子の魂の発育もよくなくなるであろう。
確かに学校現場で働いていて、学校という場所でしか関われない僕たちにできることは限られている。
子どもにしても保護者にしてもそれまでの年月をかけて積み上げてきたものを変えていくのはなかなかに大変だ。
もちろん鉄が冷めたからといって打たないわけではないのだけれど、もう少し早くに出会っていればと思うことがある。
人間にも味がある。おもしろい人間もあれば、さっぱりおもしろくない人もある。どことなく人をひきつける魅力はどうしてできるのか、と考えるときに、このぶどうの教訓が役に立つ。
人間は陽の当る温かいところだけで生きていても人間味が出てこない。陽が沈んでで寒くなる逆境をくぐるたびに、少しずつ甘さをます。苦しいことにじっと耐える。それを通じて、知らず知らずのうちに人間の幅が出るのは、温度が下がって甘味を濃くするぶどうと違うところはないように思われる。
そうかといって、冷たい逆境の連続がよいわけではない。北極や南極でぶどう育てることは考えられもしない。温かいのと寒いのが交錯するところがいい。幸福なだけでもいけないが、さりとて、不幸だけでもいけない。幸福と不幸が交錯しているのが理想的なのであろう。
「かわいい子には旅をさせよ」という言葉がある。また今読んでいる別の本にも、「去勢(自分が万能であることをあきらめること)を否認させる」教育システムという言葉があった。
個人的にもほめたり、成功することだけを積み重ねたいくのではなく、できないことや失敗することも含めて自分を受け入れるのが大事なのではないかと思う。
人間の文化はすべて、くりかえしを基礎にもっているようだが、言葉はその典型である。くりかえされているうちに、慣用ができる。慣用の確立したものには意味ができる。意味のあるものが価値をつくり、その価値の組織の上にその社会の文化が発達する。くりかえしを離れて人間文化はあり得ない、と言ってよい。
…
大人はくりかえしを退屈だと思うことが多い。同じことを何度も言うと、うるさい、と感じる。なるべく、あっさり、しようということになるわけだが、このやり方をこどもにあてはめては、こどもが迷惑する。こどもは大人のように、くりかえしをうるさいと思っていない。そればかりか、むしろ、同じことを何度も聞くことに喜びを示す。おとぎ話をねだるこどものしつこさは、大人をへきえきさせる。くりかえしきいているうちに、慣用による理解が生まれるわけだから、大人が自分であきたからといって、くりかえしを止めるのはよろしくない。
これは言葉だけの問題ではない。生活や行動においても、基本的なものをくりかえすことの意義は、どんなに重視してもしすぎることはない。ものごとの意味を説明したり、理屈をいったりすることは、こどもにとってあまり効果がない。だまって、いいと思うことをくりかえす。そうすれば、すぐれた文化を自然に身につけるようになる。いまの教育は全般に、このくりかえしの価値を忘れている。暗誦などは古くさいとされているが、はたしてそうかどうか、考えてみたいものだ。
基礎や基本とはどういうものなのだろうか?著者のこの言葉は、友だちに手紙を書きたい一心で毎日鉛筆を握り、繰り返し手紙を書くことでひらがなを覚えていった娘の姿を連想させる。
応用や活用だけでなく、基礎基本をくりかえすことの大切さを忘れてはいないだろうか。
僕ら親は子に何を教えるべきなのだろうか。
教員である僕は、家でもときどきその顔が出てしまう。
多分、学校と家庭で必要な関わりは違う。
大体、うちの母親も教員で、学校にも家にも先生がいるのは嫌だった。
親として何を教えるのか。
自分なりの答えを探しながら、今日もうちの子たちはすくすく育っていく。