先日、放課後デイのちゃんとしているちゃんとしていないみたいな話を聞いて思ったこと。
学校も家庭も放課後も子どもの顔が同じということはないし、全てが訓練する場所になると子どもは追い詰められてしまうかもしれない。
— メガネくん@盲学校からの発信 (@tattumiiii) 2021年3月22日
ゆっくりしたり甘えたりする場も必要なんだよなぁ。 https://t.co/iHoRmmaT7j
僕は支援学校という場で働いている。最近は多くの子が放課後を、家庭ではなく、放課後等児童デイサービス(放課後デイ)という場所で過ごす。そこは本来は療育の場なのだけれども、ただ子どもがて好きに過ごしているだけのところがあって、「そんなんじゃダメだ、もっとちゃんとしないと」という声があるみたいな話だ。
この「ちゃんとしないと」はなかなかの曲者で、特に学校現場で働く教員はこの言葉の誘惑に抗えなくなってしまうことが多いようだ。
多分元々は「自分がちゃんとしないと」のはずなのに、だんだんと「自分がちゃんとしてると思われるように、子どもをちゃんとさせないと」となり、いつしか「ちゃんとしないと」は「子どもが全力で頑張っている状態にさせないと」というように変換されていってしまう。
これは熱意のある教員だけでなく、同じく熱意のある家庭や放課後デイでも当てはまるのではないだろうか。
ところで、我が身を省みると、そんなにどこでも全力で頑張らことができているだろうか。
「いや…無理だなぁ」
そういう人が大半なのではないだろうか。
常に全力で何事にも取り組んでいたら、すぐに力が尽きてしまう。
試しにスマホのライトを全開にして使い続けてみてくださいな。
長く働き続ける、いや生き続けるためには、適度に手を抜くことや、力の入れどころと抜きどころを判断することが大事だ。太く短い人生を歩みたいなら別だが。
ところが学校という場では、全力で頑張ることが善とされ、手を抜くことは悪であると忌み嫌われる。教員を目指す人が、学校という場でそれなりに成果をあげてきた人だからかもしれないし、どんなに仕事を効率的に進めても授業時間はその場にいなければならないという仕事の特性からくるものかもしれない(なので学校という場で授業に穴をあける有給はあまり歓迎されない)。
以前、小学校から子どもが有給を取得できるようにしたら〜みたいなツイートを拝見したことがあって、個人的にはすごく賛成なのだけれども、皆勤賞を褒める風潮のある学校社会では難しいかなと思う。
僕自身は、人はそれぞれの場での顔があることを知っているし、どこでもいい顔をして全力で頑張るような子はいずれ潰れてしまう危険性があると思っている。
なので、熱意のあふれる家庭や放課後デイと話すときには、そのことを共有し、無理のない範囲で取り組みましょうと声をかけるようにしている。もちろん、子どもが自主的にやりたいことはどんどんさせればいいと思うし、そんな風に子どもが思うような仕掛けや工夫ができれば教員冥利に尽きるものではあるのだが。
というのを言い訳にしつつ、夕食を外食にしたり、洗濯物の山を週末に片付けたりしている。あと食洗機は必須。疲れてるときの食器洗いと洗濯物たたみをしたくなるアイデアがあったら教えてください笑。