学校で関わる子ではなく、うちの家の子の話。
先日、保育園で3歳の娘の懇談をしてきた。
(娘の懇談なので早退しますと言うと驚かれたので、保育園での懇談って珍しいのかな)
仕事で子どもたちと関わるときと同じように、家庭で娘と関わらないようにしている。
ついつい仕事口調で、そして身内の補正があるのか、問題があったときにはちょっと厳しめで接してしまいがちなのだ。
僕自身が職場の懇談で言っているのだが、学校の授業でも部活でも、習い事でも、家庭でも、全部頑張れる人はいない。どこかで休める場所がないと、潰れてしまう。
そう意識していないと、娘は保育園と家庭とどちらにも先生がいることになってしまう。それは大変すぎる。
懇談では先生が「娘さんは園ですごく頑張っているので、頑張り過ぎじゃないか心配しています。家庭ではゆっくり休憩したり甘えたりしてくれたらと思います。」と伝えてくださり、最近家で「いやいやー」と言っている背景がわかったし、それと同時に自分が子どものことをどれだけ知っているのかを考えさせられた。
自分が娘を見ている時間は、朝起きてから保育園へ送るまでの1時間半ほど、仕事から家に帰ってから娘が寝るまでの多くても3時間と土日(仕事やらなんやらで全く会わない日もある)。
それ以外は娘から話を聞いたり、妻から話を聞いたり、保育園からの連絡帳の様子を見たりしかない。
それなのに娘のことを全てわかっている気になってしまう不思議。
娘がお風呂で言う「今日の給食唐揚げ出てん!」「よかったやーん、美味しかった」「うん、美味しかった。めっちゃ大きいの食べてん!」「じゃあ今日は何して遊んだのー?」「今日はなー、〇〇ちゃんと三輪車して遊んで」「おー〇〇ちゃん風邪治ったんかーよかったねー」には以下のような内容が隠れている。
「今日は給食に唐揚げが出て美味しかった。そして配膳のときに隣の子の唐揚げがすごく大きいことに気付いて、こっそり交換しようとして(さすがうちの娘、お目が高い笑)、バレて、その子に怒られたけど、先生があまりの唐揚げからどれと交換するのかを選ばしてもらえて、大きな唐揚げを選んで食べた。」
「〇〇ちゃんと三輪車で遊びたかったけど、なかなか誘えずに三輪車で突っ込んじゃった。先生がきて誘いたかったことを聞いてもらって、〇〇ちゃんに先生と一緒に遊びたいって言ったけど、〇〇ちゃんは怒ってて一緒に遊んでくれなかった」
(保育園の先生から妻が聞いた話より)
自分の娘でさえそうなのに。
教員という立場の僕は、学校の、しかも自分の前だけの子どもの姿を見て、子どものことをわかった気になりがちだ。
他の教員の前、家庭、習い事、子ども同士、それぞれの場で顔が違うことは当たり前なのに、どれだけ子どものことを知っているのだろうか。
先日読んだ本、『インクルーシブ教育を通常学級で実践するってどういうこと?(青山新吾/岩瀬直樹)』 にもあったけど、そうやって子ども個のことへの関心の需要性が記載されていた。
幸い、僕は支援学校という教員の数が多く生徒の数が少ない、子どもとの距離が近く、密度の濃い関係ができやすい環境にいる。
最近考える人としての在り方、何かを伝えるときの媒体になる人と人との関係性。
それには、相手のことを知ることや相手のことを知ろうとすること(相手のことに興味関心をもつ姿勢と雰囲気)が必要不可欠だ。
僕は道徳の実践で一番最初に、自分の好きなものを食べ物やスポーツ、本、漫画など50項目近くを、出来るだけマニアックに書いてもらい(例えばハンバーグなら、ロイヤルホストの黒×黒ハンバーグのブラウンバターソースが好き)、次の時間にそのうちいくつかをクイズにするということをしている。
お互いのことを4月の最初に知ることで、その後のトラブルが目に見えて減るのを実感している。
相手のことを知ること。
シンプルなことだけど奥が深く、そして終わりがない。
当たり前でおろそかにされがちだけど。
これからも大事にしていきたいな。