フェアネスというものについて考えてみる。
学校という現場で働く僕は、子どもに一方的に指導したり、子どもだけに謝罪やお礼を強要するのは僕はフェアではないと考える。
悪いことをしたら「ごめんなさい」謝りなさいと言うならば、自分も悪いと思ったときにはすぐに「ごめんなさい」と謝らなければならない。
何かをしてもらったら「ありがとう」と感謝を伝えなさいと言うならば、自分も何かをしてもらったときにはすぐに「ありがとう」と感謝の気持ちを伝えないといけない。
なるべく好き嫌いなく食べなさいと言うならば、自分の嫌いなものを食べる姿勢を見てもらおう。嫌いな食べ物のない人が「好き嫌いなく食べなさい」と強制するのはフェアじゃない。ウサイン・ボルトに「100mは10秒は切らないといけないよ!」と言われているようなものだ。
「相手の気持ちを考えなさい」と言うならば、それを伝えている相手の気持ちにも寄り添わないといけない。加害者にも被害者にも誰にでも気持ちはある。
積極的に挙手しなさいと言うならば、研修会でほとんどの教員が挙手しないのはなぜだろう。積極的に挙手できるのは当たり前でなく、すごいことだと褒めてもいいかな。
「何回間違えるんだ」「何度言ったらわかるんだ」と叱責するなら、自分の心に「何回間違えさせるんだ」「なんでわかるように伝えられないんだ」と問いかけないといけない。何かを学ぶということは、何かを伝えるということでもある。
こんな考え方は、村上春樹の小説で言う手作りの真空管アンプみたいなもので、時代遅れなのかもしれない。
でも僕はなるべく子どもに対してフェアでありたいと思う。
もちろん学校という場所で教える立場があるし、大人と子どものパワー差があるから、平等にはなれない。
机の散らかっている僕が、子どもに机の上を片付けなさいと指導しないといけないこともある。そんなときも、机を片付けられないめんどくささをわかった上で、でも片付けた方がいいことあるよと伝えるようにしたいなと思う(できないこともある)。
子どもの前で謝るのは、教員としての立場がなくなるという意見もあるだろう。
いちいちそんなことはしてられないという意見もあるだろう。
フェアネスについて思うところがあっても、実際にはうまくいかないことも多い。
でも失敗や間違いを繰り返しつつも、少しずつできるようになっていきたい。
僕の思う子どもは、保護者や教員の所有物や大人に劣る指示や指導をされないといけない存在ではなく、僕ら大人とある意味では対等な存在なんだと思うからだ。