勤務先で紫陽花の咲く時期に入学式が行われた。
このコロナ禍の中で学校が再開してからもしばらく経ってからの式だ。
既に保護者とも、もちろん子どもたちとも何度も顔を合わせて電話をしてからの式。
時間は短縮し、蜜を避けるために、クラスでの挨拶もしない(というかお互いにもう顔見知り)、必要な書類も全て受け取っているという状況の式は、驚くほどあっさり終了した。
「忙しい中、わざわざこんな短い式に来てもらって申し訳ない」
「こんな暑い時期に式をするなんて(式場内の教職員は礼服との指示)」
なんて声もあったが、短い式なりになにか一区切りついた心地がした。
保護者や子どもたちもそう感じたようで、晴れやかな表情だった。
この区切りとしての式は、4年前の祖父の葬儀を連想させる。
僕は両親が共働きだったこともあり、小さい頃からじいちゃんっ子だった。
風邪をひいたときに一緒に病院へ行きアイスクリームを買ってくれたのも、スイミングスクールの体験で緊張してお漏らしした僕を慌てふためきながら世話してくれたのも、運動会や入学式、卒業式、バスケの試合にも振り返れば祖父がいた。
大正生まれの祖父がもう長くないのはわかってはいたし、当時の勤務先から祖父の家が近かったこともあってちょこちょこ通っていた。
亡くなったときは映画やドラマで見るように泣いて震えたし、実はなんというか、祖父がいない、祖母だけの家に行ってもいつもどこかに祖父がいる気がする。
でもまぁ、葬儀をして、祖父の骨を箸で摘んで壺へ入れる儀式をしたことで、祖父の死に区切りがつき、肉体としての祖父がいなくなったことは胸に落ちた。
よく聞く月並みな言葉ではあるが、式というのはそんな人生の一つの区切りなのだろう。
最近トーンが下がった9月入学、入社になるのかどうかはわからないけれど、時期がどうなっても、形がどうであれ、入学式や卒業式という式はあって欲しいと今は思う。
そんな区切りとしての式があることが、僕らの心を切り替え、変わらない毎日を続けていくために大切なのだろうから。