メガネくんのブログ

何となく日々思ったことを書いていくブログです。教育や本の感想なんかも書いてます。表紙の画像は大体ネタです。

誰のための卒業式なのか

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先日、卒業式について後輩教員と話したことから考えたこと。

 

特別支援学校でも、卒業式は厳かな空気で進んでいく。

証書授与や送辞、答辞もきちんとできるよう、繰り返し練習する。

 

体育大会の行進や文化祭の発表もそうだけれども、何のために繰り返し練習するのだろう。

練習することを否定しているのではない。

何のために、誰のために練習を繰り返すのか、その行事があるのかということを考えてみてはどうかということだ。

 

 

「卒業式と言えばこう」という多くの人に共通したイメージがある。

そのイメージ、厳粛な雰囲気を理解し、緊張感を保って静かに参加できる力を身につけるのも必要だろう。そんな力を身につけられたり、また身に付けることが求められる子もいる。

でも、それを理解したり、静かさを保って参加するのが難しい子もいる。

 

どうするべきなのか。

 

卒業式の形に子どもを合わせるのか。

静かにしなさいと繰り返し注意するのか。

静かにできなくても放っておくのか。

式の場から離れるのか。

 

それとも子どもに合わせて式の形を変えるのか。

待てない子どものことを考え、時間のかかる挨拶や証書授与を短縮したり削ったりするのか。

リラックスするスペースを会場に用意するのか。

厳粛で静かな式という形を辞めて、和気あいあいとした雰囲気に変えるのか。

 

「誰のために何をして、どうなるのが目的なのか」

その対象が変われば、当てはまる答えも自然に変わるはずだ。

 

 

実は僕たちが当たり前と信じていることの多くは、突き詰めて考えれば当たり前でないことが多い。常識というのは理路整然と、天高くそびえ立っているようで、その土台は、今までそうだったからとかみんなそう思っているからのような案外根拠のない場合が多い気がする。社会や価値観という土台が変われば、常識と思っていたことは変わる。

 

 

以前、勤務する学校の文化祭では、舞台発表が始まる前にブザーが鳴り、会場の照明が落ち、アナウンスがはじまるという流れだった。

でも音に敏感な子で、ブザーの「ビーッ」という音が鳴るのが我慢できない子だった。

ブザーの音をどうするのかという話し合いの場を設けた。

 

大人になって劇場に行ったときにはブザーが鳴るんだから、そんな環境に慣れておくべきだ。他の子がそんなことを学ぶ機会がなくなってしまう。

下の学部では我慢できていたのだから、今回も我慢させるべきだ。

イヤーマフでは対応できないのか(その子は皮膚感覚の過敏さもあり着用は難しかった)。

ブザーの予告なしに照明を消すと危険ではないか。

例年ブザーを流しているし、ブザーを鳴らさないとこだわりの強い子が混乱してしまう(でも舞台発表の劇内容はどんどん変化していくのだけれども笑)。

 

学校という現場は、良くも悪くも変化するということを避ける傾向が多い。

いろいろな意見が出たが、変えることに反対する意見の根本には、「今までそうだったのに、なぜ変えないといけないのか」という思いがあったように思う。

 

でも、聴覚過敏のある子に、苦手な音を我慢させることが本当に適切な支援なのだろうか(もちろん、過敏さはそれぞれ違うし、その子によって求められるものも異なるのだが)。

そう考えたときに、いろいろな思いはあったのだけれども、ブザーを鳴らさないという形を選択した。照明を落とす前にはアナウンスでお知らせする方式にした。

 

ブザーを鳴らさなくなってから2年経つが、今ではそれが当たり前になり、元に戻そうという意見は特に出ていない。子どもの様子をみても、特に大きな混乱はなさそうである。

 

この結果をもってなんでも子どもに合わせて変えるべきだというつもりはない。

ただ変えてもいいんじゃないかなという意見を、はなから否定するのではなく検討してくれてもいいんじゃないかと思うのだ。

 

さてさて、うちの卒業式はどうなるのやら。