先日の文化祭の話で出会ったある少年の話。
発表は学年全員の合唱だった。
向かって左側が女子、右側が男子に別れ、全員が壇上に並び、中央手前の指揮者の方へ向きを変える。
ところが、前列端の少年二人は示し合わせたように前を向いたままだ。
そして合唱がはじまった。
彼ら二人のうち、一人は前を向きつつも囁くように口パクしていた(口パクするくらいなら前を向けばいいのに)。
対して、もう一人の少年は前を向いたまま、口を真一文字に結び全く歌わなかった。
そんな彼を意識しながら全体を見通す。
中学生、思春期真っ只中だ。
自分から積極的に人前で歌いたい子は少ないだろうし、歌に自信のない子もいるだろうし、何より恥ずかしい。
申し訳程度に口を開けて歌っている子も少ないない。
きっと練習をサボって女子に怒られて、体裁が悪くなり、仕方なく歌っている子もいるんだろう。
でも、あの少年は違った。
彼は自分の意思で歌わないことを決め、かつそれが周囲に伝わるように他の皆と向きを合わさずに1人だけ前をむいていたのだ。
全体を見回しながら、時折彼のことが気になり彼の方に目を向ける。
目が合うとこちらを睨みつけてくる。
こちらも相手の眼を見つめ返し、お互いお見舞い状態になる。
30秒程お見合いが続き、彼は視線を逸らし、俯いてしまう(そこまで意思を固めたなら、顔も知らない部外者と目が合っても無視して堂々と前を向いていて欲しかった)。
そのまま彼は俯き、2曲目も歌うことなく退場した。
この舞台発表まで彼に何があったのだろう。
自分の学生時代や働いてからの経験の中で、周りの空気に流されてしまう人が大半だった。
クラスメイトや教員側の立場だと、「なんで歌わないんだ」という怒りや驚き、失望などの感情が出てくるのだろう。
学校教育では彼のように皆が当たり前にしないといけないと思っていることに反抗する意思の強さは、出る杭として大抵深く打ち込まれ、そしてもう飛び出ることはなくなってしまう。
それは、社会性を身につけるという面はあるのだけど、ある意味では意思の強さや個性を無くすということにも繋がる。
別にどちらか一方だけがいいというわけではない。生きていく上ではある程度のバランスが必要だし、その子の人生を生きていくのはその子自身だ。
クラス全体で糾弾したり、教員が強い指導をしてからに歌わせることはできるのだろう。
そうなるかもしれない状況で、口を真一文字に結び、歌わなかった彼には何があったんだろうか。
頑なに歌わない理由はなんなのだろうか。
体育館に響き渡るコーラスをききながら、そんなことを考えていた。
ちなみに表紙の画像は、「いしを ころがして てっぺんを めざす ゲーム」いしころのタイトル画面です。気になる方は検索をどうぞ。