メガネくんのブログ

何となく日々思ったことを書いていくブログです。教育や本の感想なんかも書いてます。表紙の画像は大体ネタです。

厳しくすることと信頼することその狭間で

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先日、交流教育の一環として近隣中学校の文化祭を見学した。

遡ること約20年、思い返せば当たり前だったはずなのに、生徒数が多いのにはっとさせられる。そうだ。盲学校は生徒数が少なくて、教員が多いので、その感覚が日常になってしまっていたのだ。

1学年で5クラス。単純に1クラスに40人と考えると、3学年で600人にもなる。盲学校とは比べ物にならないくらい人がいる。

 

当然、それだけの人数が体育館の中に詰め込まれるので、すぐには静かにならない。

発表直前に照明が落とされ、暗くなるが、ザワザワは止まらない。

放送担当の生徒からは、「静かにしてください」と何度も伝えられるが、なかなか静かにはならない。

教員の指示で照明がつけられる。

生徒指導の教員が前に出てきて、説教がはじまる。「こんな風に前に出てきたくはなかった。生徒たちだけで運営してもらいたかった。ここ数年で最もよくない。」などなど繰り返され、威圧される中で、だんだんとざわめきは落ち着いていく(もちろん生徒たち全員が納得しているわけではなく、その教員に対して「うるさい」などと言い返す生徒もいた)。

 

そんな場面を見ていくつかのことを考えた。

 

「自分たちが中学生のときはどうだっただろうか、同じように騒いでいたのだろうか」

同じように騒いでいた。でも、生徒指導のコワモテ教員(当時の部活顧問)が出てくると自然と静かになった。うちの顧問はムキムキの極真空手家でヤンキーからも恐れられていたのだ。

 

「大人になった自分はなぜ騒がないのか」

周りの状況を理解し、空気を読むからだ。この場所はもちろん、映画に行っても、宝塚大劇場に行っても、開演前のアナウンスが流れれば皆静かになる。それがマナーだし、なにより映画や演劇が楽しみだからだ。

 

「この場面で子どもたちにどうなってほしいのだろうか」

もちろん静かになってほしい。ただ、威圧され、説教され、叱られてから静かになるのではなく、自分自身で状況を判断して、自発的に静かになれるようになって欲しい。

 

「子どもたちはなぜ静かにならないのだろうか」

自分をコントロールできないので、隣の子とのおしゃべりやからかいなどを我慢できないから。

どのタイミングで完全に静かにすればいいのか、ルールがわからないから。

発表が楽しみではないから(実際に一番盛り上がった吹奏楽部の演奏前には、指導されたこともあるが、それまでに比べるとスッと静かになっていた)。

発表側、運営側の静かにして欲しい気持ちを想像できないから。

厳しく指導してくる教員に反発したいから。

皆が静かにしていないから。

ちょっとぐらい喋っていてもいいだろうという思いや甘えから。

他の理由があるかもしれない。

 

「子どもたちが自分で状況を判断して、自発的に静かになれるになるためにはどうすればいいのか」

子どもたち自身が、指示されるのではなく自分で判断できるために、認知や思考プロセスを確認し、考える場を設定する必要があるだろう。

また歯痒くとも子どもたちを信頼し、任せる場も必要になるだろう。

もちろん全員がすぐ上手くいくことはないだろうし、上手くいかないことが上手くいくために必要なんだと思う。

ただ何百人も生徒がいれば、いろいろな子がいて当たり前だし、すぐに理解できる子もいれば、納得するのが難しい子、考えるのが難しい子、反発する子、感情のコントロールの難しい子もいるだろう。

 

静かにする即効性を考えれば、威圧的な教員が出てきて一喝するのが良いのだろう。

叱られる経験を通して気付く子もいるだろうし、厳しく指導するを全面的に否定するつもりはない。

何百人もいる子どもたちを一斉に指導する難しさもある。

難しい。

信頼して任せるより厳しく指導してコントロールする方が簡単だ。

厳しさに対する耐性も一定は必要だろう。

 

それとは別に、例えば照明を落としてブザーが鳴ったら静かにするといったようなルールを明文化したり、あえてザワザワしたままはじめる(映画や演劇などもはじまればザワザワは自然と収まる)なんていうのも1つの方法かなとも考えた。

 

人は皆同じではないし、何百人もいればいろいろな人がいる。

全員が一斉に静かにならないのが当たり前という考え方もあるし、静かにしないと法律に違反して逮捕される訳ではない(うるさくしすぎるのは駄目だが)。

ただ僕たちの生きる社会はそんな暗黙のルールで溢れているし、一々考えずに周りに合わせているのが大多数だろう。

 

話がまた戻るが、自分で考えられるようになるためには、自分で考えないといけない。

でも皆が自分で考えると、正解はひとつではなくなる。まとまらなくなる。集団の分母が多いなら尚更のことだろう。

 

以前テレビで観た、精神科病棟で拘束することを認めるか否かという番組を思い出す。

患者と徹底的に話し、職員全員で意識を共有すれば、拘束は必要ないと熱弁する看護婦長がいる一方で、そんなことは現実的には難しいと返す末端のスタッフがいた。

 

信頼すると言葉で言うのは簡単だが、本当に信頼して任せる、見守るのはなかなか難しい。

まして、チーム全員で足並みを揃えたり、対象の人数が増えるとなお難しい。

 

僕は指導と信頼の狭間でまだ揺れている。