Facebookで見つけた友人の投稿から
パッケージ化され、ひとつの形式になることで、
大量に広まっていったスペイン風の近代建築。パッケージ化され、形式化されるということは、
「完璧なモノが」「できてしまい」、
「それが繰り返されてしまう」ということで、
生まれて行く躍動感や、生もうとする遊び心にかけるところがある。
●●ビルさんは躍動感と遊び心に満ちた建築。
●先生のご指摘が相変わらず鋭く刺さりました。この10年強、
混沌の時代と言われてきて、
新しい何かを生み出さなくてはならない、
という方向に色んな分野が向いていって、
そこでとくにここ数年、
表層的なパッケージが、
「新しいモノ・コト」という錦の御旗になりうる言葉とともに出てき出して、
しかしコロナ時代に突入して。本質的な「新しいモノ・コト」とは何か。
歴史と未来を俯瞰される●先生の眼に、
いつも感動します。
6年前に妻とスペインへ旅行した時の話だ。
マドリード、トレド、アルハンブラ、バルセロナを鉄道や飛行機で旅をした。その機内で、たまたまスペイン人の技師だと言う家族連れの男性とお互いに拙い英語を駆使して会話していた。確かこういった内容だったと思う(実際はこんなスムーズには話せていませんし、かなり要約しています。ボディランゲージや筆談も多用しているので、この内容で30分くらいはかかっているはず笑)
「観光か?どこから来たんだ?」
「日本だ」
「(子どもたちが)日本?クレヨンしんちゃん!」と盛り上がる。
(僕がクレヨンしんちゃんやドラえもんの絵を描いて、「似てないよー」とか言い合いながら交流する)
「当然、グエル公園やガウディ設計のアパートも見に行ったよ」
「これはこないだ(スペインの)ドキュメンタリー番組でやってたことなんだけど、今でこそガウディは有名で唯一無二の存在になっているけど、実は彼が生きていた当時は、彼の作品は奇抜過ぎると言われてそんなに評価されていなかったんだ。
当時は、モダンで直線的で画一的なアパートメントやビルが先端的だともてはやされ、一世を風靡していたんだ。
そんな中でガウディの作品は異端的な扱いを受けていたらしい。
それがいつのまにか、ガウディの作品の個性が認められて世界中で有名になり、一方で、スペインの近代建築は個性的でないが故にそれほど評価されなくなった。
お互いに拙い英語のやりとりだったが、「だから世の中何がどうなるかわからないね」という言葉でこのスペイン近代建築についての話は終わった。
この話は色々なことを示唆している。
世の中の流行り廃りについてや、個性的であることの難しさ、評価されるタイミングなどなど。
でもそれとは別に僕の思い出の中に残っていた異文化交流の一場面だ。たまたま見かけたスペイン近代建築という言葉から浮かんできた思い出のカケラだ。