子どもとはなんだろうか。
中世までは子どもは小さな大人と考えられていた。教育するという余裕がなかったこともある。子どもは貴重な労働力だったのだ。
近世以降は子ども観が現れ、子どもを教育するようになり、さらに学校が出現した。
学校は、産業革命が起きて工業化が進み、また徴兵令が敷かれた国民国家となった近代社会で、工場や軍隊で指示やマニュアルの通りに従って行動できる人間を育てるため、学校ができ、子どもに教育することが義務となった。
それが学校教育のスタートだ。
そのような流れで、日本の教育は集団での一斉授業で知識を伝えること、集団についていけるよう指導することに重きが置かれてきた。戦争の前と後でも、教える内容が変わっただけで、その本質に大きな変化はなかった。
そこでは、「未熟で大人が教え育てないといけない存在だ」と子どもを捉えていた。
本当にそうだろうか。
確かに子どもには未熟な部分がある。
知識や経験も不足している。
でも、だから自分の思うように子ども叱り、指導し、導くのが良いのだろうか。
子どもは本当に大人が一方的に教育しなければならない存在なのだろうか。
僕はそうではないと思う。
確かに子どもには未熟な部分もある。
知識や経験も不足している。
でも、その知識や経験をもとに自ら悩み、考え、選択することができる主体的な存在でもある。
知識や経験不足から失敗もする。
でも、その失敗から学ぶことができる。
大人だろうが、子どもだろうが、目が見えないだろうが、知的な発達に遅れがあろうが、その人の人生を生きるのはその人の自身だ。
保護者や教員の人生ではない。
もちろん、未熟な面もあるから教え導くことも必要になる。
でも、主体性という面からすれば、大人と子どもは対等な立場のはずだ。
その子の人生で、悩み、考え、選び、決定し、結果を受け入れるのは、その子だ。
そんな風に、一人の人間として子どもを尊重するような立場に立てば、子どもとの接し方は変わる。
僕は人間は、最終的には自分が納得したことしか自らの意思で続けることはできないと思っている。
もちろん躾や強制、あるいは罰で無理矢理させることはできる。続ければ習慣にはなる。
そうしなければならないこともあるかもしれない。
でも教員として僕は、可能な限り主体性は子どもにあってほしいと思う。
僕はその子の人生に最終的な責任は取れない。
だから、僕にできるのは、本人の想いを聞くことが、僕の考えを押し付けではなくアドバイスとして伝えること、実際の具体的な方法や工夫を伝え体験してもらうこと、その上で本人にどうするのかを考えて選んでもらうことだけだ。
やるやらないも含めて選択するのはあくまでもその子本人。
「未熟で大人が教え育てないといけな部分もあるけど、その子の人生を主体的に生きる大人と対等な存在だ」
そんな風に子どもを捉えたい。
その子の人生はその子のものなのだから。