『見えない私の生活術(新納季温子)』を読んだ感想。
全盲の著者が生活の中で困ったことやそれらへの工夫などのエピソードがたくさん語られる本。具体的な事実やそれに対する想いや感想なんかもあってリアルな感じがよくわかる本。
この本にあった「なんとかなるし、楽しいよ」という言葉について考える。
学校だと安全とか万が一のときはどうするとか責任とかいろいろあって「なんとかなるからやってみよう」はなかなか言えないしできない。
けれども、なんでも準備万端で万全の状態でとか考えるとなかなか一歩が踏み出せなくなる。
そもそも想定外のことが起こらない方が珍しいし、全てをコントロールできるという考えもおこがましい。
失敗して恥ずかしかったり、どうしようもなく困ってしまうこともあるだろう。
実際本の中にはそんな恥ずかしくて二度としたくないような失敗のエピソード(川への転落や乳児の娘を間違って家の中に置いたままオートロックのドアを閉めてしまった話、お弁当のブロッコリーが黄色で硬くて娘がお弁当を残してしまった話などなど)がたくさん掲載されている。
でも、そこで足を止めていたら何もできない。
別に無理矢理一歩を踏み出せという訳じゃない。
もちろんなんにも知らない、わからない状態や状況で無理矢理放り出せと言っているわけではなく、それに向けての本人の意識づけや基礎基本になることの練習なんかは必要なんだけれども。
そんな一歩を踏み出そうか迷っているときに、この「なんとかなるし、楽しいよ」はすごく大事で、いろんなことのはじまりになる、背中を押してくれる言葉じゃないかなぁと思った。
あと冒頭にある、著者が盲学校中学生時代に社会の授業で唐突に(HRに担任から言われた訳じゃない)で言われた場面が印象的。
私が楽しみにしていた歴史の授業が始まろうとしていたが、突然先生のお説教に変わった。「おまえらは人に頼りすぎや。甘えとる。中学生にもなって、誰も学校まで一人で来られん」と、私たちが自立できていないことを、手きびしくこんこんと指摘された。問答無用の、あまりに一方な先生に怒りが込み上げてきたが、悲しいことに言われることはすべて事実だった。先生は最後に、「おれにこんなこと言われてちょっとでも悔しいと思うんやったら、一人で学校まで来れるようになってみろ。親はいつまでも生きてないんやぞ」と、徹底したダメ押しである。これでもか、これでもかと現実を叩きつける先生と、今まで他人に頼ってばかりいた自分に腹がたったが、一言の反論も弁解もできなかった。
この後、著者は自宅から学校への自力登下校にチャレンジしていくのだが、もちろんみんながみんなチャレンジできる力がある訳ではない。
もちろん今と当時で障がいに対する考え方は違うし昔のように障がいの克服をすべて個人に求めるのは間違っていると思う。
かと言って全てを周りの人や環境に求めるのでもなくて、
「自分でできることはする、できることをできれば増やしていく、そうすると自分のペースで好きにできるで」
というのが、今、自分が子どもに伝えていることだ。
学校にいる間に全てを身につけることはできないだろうけれど、その先に身につけていくための基礎とチャレンジする意欲は持ってて欲しい。
あと「なんとかなるし楽しいよ」のスタンスもあればいいなぁ。
まぁその子の人生はその子が決めるんだけれども。