道徳での取組みから考えたこと。
自分とはなんぞやという話。
真面目である、慎重である、積極的である、気がつく、楽しい、明るい、リーダー的であるなどのいくつかの項目で、当てはまる、どちらともいえない、当てはまらないの3択で、①自分について、②友だちについてを考えて選択してもらう。
そうすることで、①自分の思う自分像と②他人の思う自分像が出てくる。
これは同じ場合もあれば、違う場合もある。いや、多くの場合、多かれ少なかれ異なる。
どちらだけが正しいというものではない。
人はそれぞれに価値観や基準が異なるのだから、自分は真面目だと思っていても周りからすれば不真面目かもしれないし、その逆も然りである。
でもこうやって、①自分の思う自分像と②他人の思う自分像を比べることで、その人なりの自分像とその背景が分析できるし、クラス内の人間関係が垣間見える。
僕たちは素直とは思えないあの子が自分のことを素直だと思っているのは、思ったことを我慢せず正直に伝えていることからくるのかもしれない。
みんなそれぞれ自分の思う世界があるのだ(その世界がみんなの世界と共有されているかどうかはわからない)。
みんな人間だから、好きな子に対しては当てはまるが増える。あばたもえくぼというやつだ(優しいとか真面目とかの方が良いかどうかはわからないのだが)。
だから他人からの評価があてになるかというとそうでもない。
そして人間はその場に応じて顔を使い分ける。
学校の顔、家庭の顔、習い事の顔、友だちと遊んでいるときの顔、恋人とデートしているときの顔、全部の顔が同じ人間なんていないだろう。
だから周りの人からの評価は、それが家族や恋人であっても、あくまでもその人のある一面を表すにすぎない。
かと言って自分の思う自分像は正しいのだろうか。
それもわからなくなってくる。
自分とはなんなのか。
中庸派を自称する僕は、「自分の信じる自分も他人から見られている自分もどちらも自分で、どちらかに偏りすぎるのではなく(自分を過信しすぎるのも良くないし、周りからの評価を気にしすぎて思うように動けなくなるのもどうかと思う)、バランスが大事ですよね」といつものようにまとめるのだけれど。
でも世の中で活躍する人の中には、バランス派だけでなく、一切自分を疑わずに邁進するタイプ(結果は後からついてから派)や、自分を信頼せずに周りからの情報や優秀なブレーンによって成功するタイプもいてるし、なにがいいのかなんて、結果僕にはわからない。
そもそも自分ってなんだろう。
自分の思う自分
他人の思う自分
自分が外に出す自分
自分の中にいる自分
場面によって姿や態度を変える自分
本当の自分なんているんだろうか。
万人が認める、これぞ、ザ・自分みたいなものってあるのだろうか。
ないというのならば、なぜ人はインドに行ったり、チャリで日本の北端を目指して宮大工の元で勉強したり、今の場所にいる青い鳥を探したりするのだろうか。
自分
自分
自分
考えても答えの出ない螺旋階段の中にいます。
ちなみに道徳実践の元ネタはこちらです。