子どもが熱中できることを大事にしたいと思う。熱中できる何かに出会えてそれにどっぷり浸かれるのは得難い経験だ。
僕自身は勉強の本質は強制されるものではないと思っている。嫌々教員や親から強制されてやるよりも、本人が必要性を感じて主体的に学ぶ方が、学び得る質も量も格段によくなると思う。学びの効率が全然違う。実際、質問を授業の柱にする取り組みをしてみてそう実感した。
苦手なもの(もしかしたらそう思っているだけかもしれないが)も、必要だと自分で感じれば勉強するようになる(と思っている)。
子どものことをもっと知りたいと思うから、教育論や子どもの発達、心理、授業の工夫なんかを学ぶ。
ロケットで宇宙から行きたいから、そのために必要だから工学や数学、科学を学ぶ。虫歯にならないように歯を磨く。
昆虫が好きだから、生物学を学び、その面白さを他者に伝えるために伝えることを学ぶ。
魚が好きだから、魚へんの漢字を覚えて、それから苦手だった漢字が得意になる。
得意なこと、好きなこと、熱中できることのエネルギーはすごい。そしてそこからどんどん派生していく。新たな学びにつながる。
反対に強制されてたと本人が思う勉強はあまり効率が良くない。定着もしにくいし、強制がなくなると辞めてしまうことも多い。
でも、強制されることの必要性や強制されることで気づくことや学ぶこともあるだろう。
指摘して気づかせてもらった。
強制された学習が土台となり、自分のやりたい事や必要な事を取捨選択することにつながる面もある。
大体、何に熱中するかなんてやってみるまでわからない。
なんでも学びにつながるし、何がどう転ぶかはわからない。
本当に学べる人は、強制されたなんて思わず与えられた機会と思って何でも学ぶんだろう。
そうなれたらすごく強い。
でも実際はなかなか学ぶ意義がわからない、学ぶ楽しさが見つからない、学ぶことが嫌になっている子も多くいる。勉強させられていると感じている子は多い。
そういう子に自分は何を提供できるか。
好きなものや得意なことを活かすこと、楽しくなるような工夫や仕掛けを用意すること、いろいろと試す(ある意味では強制する)中で気づいてもらうこと、多分その子に合わせたバランス調整が必要なんだろう。
まぁ結局は、本人が選んで納得したことしか定着しないので、その子が何を選ぶのかなんだろうけど。
その子を尊重することと社会性を身につける指導や躾の話とも似てる気がする。
「親のしつけからはみ出した部分が個性だ」という言葉も聞いた。
なるほどと思う反面、本当にそうかと思う部分もある。
僕の求める答えは極端な部分ではなく、そのバランス配分にある気がする。
難しいなぁ。