メガネくんのブログ

何となく日々思ったことを書いていくブログです。教育や本の感想なんかも書いてます。表紙の画像は大体ネタです。

僕たちはロボット犬をつくっているわけではないのだから『がんばれ!キミは盲導犬』

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『がんばれ!キミは盲導犬-トシ子さんの盲導犬飼育日記』を読んで思ったこと。

 

アローという盲導犬を目指すイヌが主人公の1人で多分同い年生まれなのでつい肩を入れたくなる。パピーウォーカー(1歳まで盲導犬候補のイヌを育てるボランティアさん)の元で育ち、訓練施設を無事に卒業するも、関節の病気が見つかり、盲導犬とはならずにPR犬(盲導犬のPR活動や盲導犬体験などに活躍するイヌ)の道へ進む。

 

このアローも含めた盲導犬を訓練する中部盲導犬の訓練センター所長の河西さんの言葉が印象に残った。

「性格的にどうしても盲導犬に向かないイヌもいる。いろんな段階で、そう判断するしかない場合もある。われわれはロボット犬をつくっているわけではないのだから、生身のイヌにたいするほんとうの愛情は、どうかいつでもわすれないでほしい。たまたま盲導犬というものにはあわなかっただけで、番犬としては優秀かもしれないし、飼いイヌにしたら、一生かわいがられる性格のイヌかもしれない。イヌを見る目とでもいうか……それを盲導犬という線だけでみるのでなく、もっと"生き物"としてのイヌへの思いやりをもってほしいと思う」

 

盲導犬候補の全員が盲導犬になる訳ではない。もちろん盲導犬を訓練する施設だから、盲導犬育成に取り組むんだけれども、盲導犬の道に進まなかったイヌたちへの愛情にあふれた言葉だ。

 

僕は学校という現場で働いている。

子どもたちも同じではないか。

僕たちは工場で規格化された製品を作っている訳ではない。

子どもたちはそれぞれ違うし、適性も異なるだろう。

勉強が得意な子、運動が得意な子、パズルが得意な子、探究心に溢れる子、思いやりを持った子、自分の意思をはっきり主張できる子、生き物が好きな子などなど

だけれども、学校という場では1つの正解のようなもの(長い人生でそれが正解かどうかはわからないけれど)に、子どもたちをはめ込もうとする側面がある。

もちろん型にハマることにもメリットがあるし、この日本という国で1億人以上が暮らしていく社会を維持するためにはある程度共通のルールや感覚が必要になる。

特に特別な支援を必要とする子の多くは、曖昧でふわふわした社会のルールやマナー、感覚という型にハマり、覚える必要があるのも事実だ。

そうやって型を覚えないといけないけれど、自分らしさや他人との違いはあっていい。

バランスが難しい。

読んでいて盲導犬の話か、教育の話が分からなくなってきた。

 

それと、この本のいいと思ったところは、良い面ばかりを掲載していないところである。

中西所長が盲導犬育成事業をはじめたとき、夜遅くまで街頭募金活動をしていても誰も見向きもしてくれなかった。師走の季節は寒く、盲導犬にお金を回しているため満足な衣類さえ着ていない体には寒さがハリのように突き刺さり、うまく喋れない。足の爪先の感覚もなくなり、ひとりポツンと立っているときに、「なせ自分だけこんなことをしていなければならないのだろうだろう」という思いが一瞬頭をよぎる場面がある。

盲導犬飼育員のトシ子さんは、盲導犬候補生の世話で、土日も働き1ヶ月に取れる休みは本当に少ない。餌やりや掃除、排便の片付けなどイヌの世話と犬舎そうじに明け暮れていて「一体私は何をやっているんだろう」と思い悩む場面がある。

育成資金には限りがあるし、どうしようもない病気もある。

 

物事にはきれいな面だけでなく、その裏にモヤモヤしたすっきりしない面、嫌な面、汚い面もあるだろう。

ボランティアとか志とかそんな単純な言葉だけではなく、何かを続けていくためには、そんなものを超えていく信念とでもいうものを、迷いとともに持っていないといけないんだろうなぁと思った。

もしくは続けていくことで支えとなる何かができるのだろうか。

 

何にせよ盲導犬訓練施設ではロボット犬を作っているわけではないし、学校も工業製品を作る工場ではないはずだ。

でも社会に出ていくときに求められる規格があるのも事実だ(そんな企画に縛られずに生きていくことを選べる時代なのだけれども)。

バランスというかさじ加減の問題なのだけれども、僕たちが目指すのは言われた通りの指示を考えずにこなすロボットではないんだということを忘れてはいけないなと思う。