メガネくんのブログ

何となく日々思ったことを書いていくブログです。教育や本の感想なんかも書いてます。表紙の画像は大体ネタです。

温故知新と主体者は誰か『視覚障害教育の源流をたどる』

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視覚障害教育の源流をたどる 京都盲啞院モノがたり(岸博実)』を読んで思ったこと。

視覚障害教育の源流をたどる――京都盲唖院モノがたり

視覚障害教育の源流をたどる――京都盲唖院モノがたり

 

 

明治の時代、まだ点字が日本に届くより前からの視覚障害教育の現場で行われていた指導法や教材教具などが豊富な写真資料とともに紹介されている。

以前、筆者の講演会でもその紹介をお聴きしたが、より具体的なモノを知ると、今の特別支援教育ユニバーサルデザイン教育に通じるものが続々と出てくる。

視覚障害教育の系統的な積み上げや情報のない中で繰り返された試行錯誤の数々。

視覚障がいのある子たちが、自分で文字(見える人が使う墨字と言われる文字)を書くための自書自感器や墨斗筆管はサインガイドに、書いた文字を触って確認できる蠟盤文字はレーズライターに、知足院の七十二例法は漢字を部首などの部品で覚えるミチムラ式にそれぞれ通じ、今に生きる僕らはその取り組みを温め、改良し、行っている。

 

その裏には視覚障害教育への熱意があるのだと思う。

見えない子がどうやれば、できるようになるのか。そのことを突き詰めていった結果なのだろう。

この本の話ではないが、視覚障害教育の専門性を考えるときに、昭和35年に発行された、『盲学校教師に必要な適性についての一考察(佐藤親雄)』と言う本を紹介され、内容を確認すると機器の発展など以外は、現在と変わらぬ内容であり、「盲児の綜合教育計画の展開におい て、他の特殊学校教師や普通学校の教職員と共同できる能力」など現在のインクルーシブ教育システムや特別支援教育に通じるものがあり驚かされたことがある。

 

視覚障害教育に携わる僕らは、その熱意を脈々と受け継いでいるし、またそれのバトンを後に次いで行かないといけない。

源流をたどることで、そのことがよくわかった。

 

 

もう一つ、改めて考えさせられたのが「視覚障害教育の主体は誰なのか」ということ。

 

様々な試行錯誤の中で、選択、改良されてきたモノは、見えない見えにくい当事者にとって、わかりやすく、使いやすく、学びやすいモノだ。

ルイ=ブライユによる点字の発明(改良)も、日本における点字の採用や日本式点字の制定も、視覚障害教育で教える立場にあった見える人の関わりだけでなく、それらを実際に使う立場の見えない見えにくい当事者の選択があり、今に至っている。

 

視覚障害教育の系統化や専門性の体系化などが進んでも、その知識のみを優先するのではなく、今目の前にいる見えない見えにくい子にとって何がいいのかを考えないといけないなと再確認させられた。

教員はアドバイザーやブレーンにはなれても、その子にはなれない。

その子の人生でいろんなことを悩んで選んで決めてやって、その結果をかぶるのはその子しかいないのだから。