自由についての話。
自由って難しい。
「何でもかんでも自分のやりたいようにしてもいい、他人に迷惑をかけてもいい、何でもかんでも俺様の思い通りだー!!」ということじゃない。
まぁそうするのも自由なんだけど。
あくまでも、自由が認められるのは社会のルールの範疇の中で、それを逸脱すると罰金や逮捕、バッシングされる可能性もある。
また自由と自由は対立する。
僕は仕事上、子どもを注意することがあるが、
「そんなん俺の自由やんけ!」という言葉を聞く。大体は、「せやな、でもこっちが怒るのも自由やろ」と返すのだが。
なぜか自由を主張する場合には、自分の主観的な立場でからの絶対的な自由を主張することが多い。それは違う。あなたが自由を主張する権利があるなら、相手にも自由を主張する権利がある。
客が店員に文句を言う自由があるなら、店員が客に逆ギレする自由もあるのだ。
もちろんそれらをするしないのどちらを選ぶのも本人の自由だ。
中学校社会では、権利としての自由を学ぶ。それと同時に、権利と権利の対立や、権利が保障されない場合(公共の福祉や緊急時など)についても学ぶし、権利と権利が対立したときにどう調整するのかということの大切さと大変さについても学ぶ。
自由と自由は対立する。
また自由には責任が伴う。
自分が何かを選んでも、選ばなくても何らかの結果が出てくる。
その結果について、人は成果があれば自分の考えや選択が良かったと喜び、成果がないかマイナスの場合はアイツのせいだ、タイミングが悪かった、運がなかったと考えがちだ。
でも選択する自由が自分にあるとするなら、結果の責任は自分に返ってくるはずだ。他人のせいにはできない。もちろん他人のせいにするのもその人の自由だけども。
自由の結果も自分に返ってくる。
そして、自分で自由に選んだ結果で損したくなければ、自分で考えないといけない。
他人に言われるがままに動くのも自由、でも結果の責任は自分に返ってくる。
社会や世間の常識、当たり前に従って動くのも自由、でも結果の責任は自分に返ってくる。
他人のいうことや常識に縛られず自分の道を突き進むのも自由、でも結果の責任は自分に返ってくる。
どう選ぶのか、何を選んで何を選ばないのか(何かを選ぶということは、他選べた選択肢を選ばないということだ)、いつ選ぶのか、なぜ、なんのために選ぶのか、それらを選択する自由が、多くの場合、人にはある。
もちろん考えた通りの結果がでてくるとは限らない。
後悔したくなければ自分で考えないといけない。
でも考えるのは大変だ。
自分の思うようにしたいのなら尚更だ。
自由なはずなのに、考えだすといろいろなものに縛られてしまう。
だから自由は不自由だ。
かつて多くの国や地域で身分制度があった。
それらの否定的な面は言うには及ばないけど、そのメリットをひとつあげるなら「考えなくて良かった」と言うことだろう。
例えばインドのヒンドゥー教には、カースト制度(より細かく言うならジャーティー)という身分制度があり、生まれによって仕事や結婚相手、日々の生活もマヌ法典などによって決められていた。
ヨーロッパでも階級によって購入するモノのランクや利用するお店が決まっていた。
全てが決められているのなら、自分が自由に選択することやその結果の責任について思い悩む必要はない。理不尽な出来事についても、世界や世間、他人のせいにして不平不満を言えばいい。
自分で考えることに比べると随分と楽だ。
でも幸か不幸か、現在の日本で僕たちが生きるのは自由な世界だ。
自分で考える、考えない(言われた通りにする)も含めて、全て自分で選ばなければならない。
この自由が素晴らしいというのは、ある意味では、自分たちで自由を勝ち取ってきた欧米的な考え方なのかもしれない。
その自由を謳歌するためには、自分で学び、考え、悩み、選び、決め、そして結果を享受しないといけない。
でも、今の世の中は自由な世の中だ。
だから、自分で考えよう。
不自由な自由を謳歌するために。
常識や当たり前にとらわれる必要はない。
結果がどうなるかは不安で怖いけど。
自分で考えて決めること。
結果の責任も飲み込んで選ぶこと。
そうすることで、何か見えてくるものがあるはず。
それが自由の本質なんじゃないかな。
なんでも、自分自身で考えよう。
他人のせいにしてる場合じゃない。
何でも自由だけど、選ぶのは自分だ。
自分が自由で良かったと思えるように。