メガネくんのブログ

何となく日々思ったことを書いていくブログです。教育や本の感想なんかも書いてます。表紙の画像は大体ネタです。

『自閉症の僕が飛びはねる理由 会話のできない中学生がつづる内なる心』自閉症について考える

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自閉症、最近は自閉スペクトラム症ASD)と呼ばれる発達障がいのひとつ。自閉症への支援は発達障がいへの支援という形で教育や福祉から広がり、多くの場所でパターン化されてきている。

 

僕は大学生のときに自閉症に出会った。ガイドヘルパーや支援学校生徒へのボランティア、放課後児童デイなどでも自閉症児と出会う機会があった。初めての職場は知的の支援学校だった。その後も、発達障がいについての本や研修会で勉強を重ねた。

 

自閉症についてはウイングの三つ組の考えがよく知られている。曰く、自閉症は社会性とコミュニケーションとイマジネーションの障がいだということ。

こだわり、感覚過敏、見通しが持てず混乱する、フラッシュバック、パニック、自傷行為、特定のモノへの関心、人への興味のなさ、一方的な会話、エコラリア、常同行動などその特徴はたくさんあるけど程度は人それぞれ。

 

自閉症への支援もどこでも聞かれるようになった。指示は短く、具体的に、わかりやすく。良い行動はすぐに評価。視覚的な支援が有効。環境を構造化する。余計な刺激を取り除く。具体的なモデルを示す。などなど。

研修会ではそんな情報をよく聞く。自分も実際にそんな支援を行ってきて、子どもの行動が変わる手応えを感じているし、校内の研修会なんかでもそんな支援の手立てを発信している。具体的な手立てを示さず、怒鳴って言う通りに動かせるのは論外だと思う。

 

でも最近ふと思う。

そんな自閉症の特徴や有効な支援を知っているだけで自閉症のことをわかったような気になっているんじゃないか。

自分は自閉症の子の個々の感覚や感じ方、心の中の奥で感じていることを無意識のうちに「自閉症のフィルター」を通してみていたんじゃないか。自閉症の子はこうと決めつけていなかっただろうか。

 

きっかけは『自閉症の僕が飛びはねる理由 会話のできない中学生がつづる内なる心(東田直樹)』という本。

この本の中には、自閉症である筆者の心の中の思いが叫びが綴られている。

「(視覚的にスケジュール表で)落ち着くように見えても、実際はしばられているだけで、本人は全ての行動を決められている、ロボットみたいだと思うのです。」

「いつものおもちゃや本で遊んでいると、やることが分かっているからとても安心です。それを見て、みんなは(これがしたいんだ)と思うのです。けれど、僕の本当にしたいことは、難しい本をよむことだったり、ひとつの問題について議論したりすることなのです。」

「(みんなといると)いつもいつも上手くいかなくて、気づいた時にはひとりで過ごすことに慣れてしまいました。ひとりが好きだと言われるたび、僕は仲間はずれにされたような寂しい気持ちになるのです。」

「僕たちは、自分の体さえ自分の思い通りにならなくて、じっとしていることも、言われた通りに動くこともできず、まるで不良品のロボットを運転しているようなものです。いつもみんなにしかられ、その上弁解もできないなんて、僕は世の中の全ての人に見捨てられたような気持ちでした。」

「僕が言いたいのは、難しい言葉をつかって話して欲しいと言っているわけではありません。年齢相応の態度で接して欲しいのです。赤ちゃん扱いされるたびにらみじめな気持ちになり、僕たちには永遠に未来は訪れないような気がします。」

もちろん本の中の全てをここには書けないのでこの辺りにしておく。

 

この本を読んでから、自分のしてきた支援や自閉症に対する認識について振り返り、自問自答した。

有効とされる視覚的な支援だって、自閉症の特性を利用しているだけで、その子は本心では望んでいないのかもしれない。もちろん、今、現実的に、有効とされている支援なしでは自閉症の子と上手いことやっていくのは難しいだろう。

でも、適切な支援の方法と本人のやりたいことは違うかもしれない。

 

支援は支援、大事なのは子ども一人ひとり。

 

そんな当たり前のことを再認識するいい機会になりました。