メガネくんのブログ

何となく日々思ったことを書いていくブログです。教育や本の感想なんかも書いてます。表紙の画像は大体ネタです。

仕事が倍に増えても給料は倍にはならないどころか据え置き、それが教員

f:id:megane_kun_ha107:20240327080458j:image

仕事の話。

 

教員というのは特殊な仕事だ。

法律によって残業代は一律4%と定められている。

つまりどれだけの時間残業しても、残業代が稼げるわけではない。

僕が学生の頃は、土日の部活指導の手当は1日500円だったというから、その頃よりは改善されたのかもしれないが…(今はもうちょっと増えた)

部活指導などで勤務時間で給料を割り、時給を計算するとシャレにならないという話もよく聞く。

全盛期のビル・ゲイツの時給46億円とは比較してはいけないのだけれども…明るい気持ちにはならない。

 

そして公務員であるので、給与の額は勤務年数と役職(教諭、首席、教頭、校長など)によって定められている。

評価制度によってボーナスが増額されるなどの制度はあるが、基準となる給与額は何時間働こうが(あるいは働くまいが)、変わらない。

 

 

ここからは個人的な愚痴のようなものになるのだが…

在校年数が長くなると学年主任とか、いろんな係のチーフやらが集まってくることが多い。

断定的に書けないのは、転勤してきてからの年数が増えれば役職が増える人もいるが、増えない人もいるからだ。

それは年齢においても言える。

一般的に年齢が上がるほど、役職に就く人が多くなる。その分給料も増えていく。

ただ年齢が上がっても全く役職に就かない人もいる。

 

職場では「仕事の偏りをなくそう」と声を大にして叫んでいる人がいる。

前の職場では、仕事の割り振りに大変さの度合いをつけて(まるでスカウターみたい笑)、均等になるようにしたらどうかと本気で考えている人もいた。

残念ながら人は皆主観的な存在なので、自分の仕事に対して「これは大変だ」とかいうバイアスがかかってしまう。

そして全ての仕事を経験して公平にジャッジできる人はいない。

仕事量スカウターとかあればいいのに。

Aの仕事を取ったら月給●万円とかね。

まぁ公務員の特性上、そればできない。

なら給料の額に応じて仕事量を調整できるのか。

ベテランの方に大変な役職なども取ってもらう。一部ではそれもできている。

ただ役職には就かないベテランも一定数いる。

まぁベテランにもそれぞれなのだけれども(もしかしたら僕も陰でそう思われているかもしれないけれど笑)

「あなたたちはどちらのベテランになりますか?」 - メガネくんのブログ

 

まぁ年限に応じてというよりは、若手も中堅もベテランも含めて公平に分けようというのが現実の話だ。

どんなベテランであっても、若手と同じ量の仕事は分担してくださいね。

冷静になればそれもおかしいのだけれども。

 

ただ現実はさらに残酷だ。

特にクラス担任や授業担当を調整する年末年始はそれぞれのエゴが剥き出しになる。

役職を決めるときに皆が俯き誰も手をあげないまま時間だけが過ぎる耐久レースのような会議。

自分のやりたいこと、大変な身体や家庭などの事情、そしてお気持ちをガンガン主張するベテラン(誰にも事情はあるのだけれど)。

幾度となくそんな場を経験してきた。

そういうのを見ると暗鬱な気持ちになる。

 

 

かと言って自分がそうなりたいとは思わない。

僕の生き方の癖のようなものかもしれないが、「自分が少し損しているくらいで丁度いい」そう思ってしまう。

 

 

ただ明らかに不公平な人事があった。

それに加えて目に見えない、例えばICT関係や授業、行事、係りの仕事、子どものことなどで相談を受けることも多い。

体感では転勤1年目の倍くらいの仕事量になるのだろうか。

4月からに大きな不安を抱えている自分がいる。

 

給料が倍になればこんな不安も吹き飛ぶのだろうか。

まぁ仮に仕事が倍に増えたとしても、給料は倍にはならず据え置き価格なのだけれど。

 

そんなことを考えていたら過去の自分も同じような内容のブログを書いていたのを発見して笑ってしまう。

2.0の人と0の人で成り立つ世界 - メガネくんのブログ

 

 

そう、休憩しながら、少しずつ、ぼちぼち進んでいくのだ。

どうせ自分にできる範囲のことしかできないのだから。

不完全な人間として

f:id:megane_kun_ha107:20240320215500j:image

本の感想。

 

『死にたいけどトッポッキは食べたい(ペク・セヒ)』という本を読んだ。

 

この本は気分変調性障害(ひどい憂鬱症状を見せる主要憂鬱障害とは違い、軽い憂鬱症状が続く状態)にかかった私の治療記録をまとめたものだ。

繰り返される私と医師の対話。

それを読んでいて、大学一回生の頃の自分に自信のない「優しさコンプレック」だった自分の姿が重なる。

優しさコンプレックス - メガネくんのブログ

 

深刻なまでに自分と他人を比較して、自己否定をする自己肯定感の低い私。

友人関係に恐怖心を持っている私。

友だちの一挙手一投足に注目し、自分の評価を極端に気にする私。

些細なことで自分なんてダメなんだと絶望する私。

過去も現在も将来も、何事に対しても悲観的な私。

定期的に何もかも投げ出したい憂鬱な気持ちになる私。

自分の過去を見ているようで医師からの言葉が自分自身の胸にも突き刺さる。

…あなたは依存傾向が強いようですね。感情の両端はつながっているので、依存傾向が強い方ほど、依存を嫌います。例えば、恋人に依存している間は安定感を感じる一方で不満がたまりら恋人から解放されると自立性を得られる代わりに不安感と空虚感に苛まれる。

 

羨ましいというのはわかります。誰にでも理想というものはありますから。でも、人を羨むのと、自分を卑下するのは別の問題ですよね。今は憧れ程度で、それほど深刻ではないようですが。

 

……今のあなたはまるで自分の人生と過去が失敗だったみたいに思っている。でも、子供の頃の基準からすれば、今の自分はとても成功しているともいえるんです。

……

他人とばかり比べるんじゃなくて、自分自身と比べて欲しいですね。

 

診察室で面と向かい合って自分自身に言われているような想像が湧いてきて、羞恥心と悔しさと諦めに似た感情が混じり合ったようなんともいえないドロドロした気持ちになる。

 

 

でも本を読み進めるうちに、私の姿は、僕ではなく、これまで関わってきた子たちの姿に重なるようになる。

極端なゼロヒャク思考に対する医師の関わりは、感情の温度計で0度と100度から50度など温度を増やしているソーシャルスキルレーニングに似ている。

本人の思考の偏りというか癖を認知してもらう問答も、別の選択肢を提示する関わりも、物事を別の角度から考えるリフレーミングも、いろんな子たちと取り組んできたものだ。

あるキレやすい子と作った自分の説明書が思い浮かんでくる。

 

もしかしたら僕もこの医師のような役割を少し果たせたのかもしれない。

そう思うと少し救われた気がする。

こんなに冷静でもなく、子どもたちからの怒りや苛立ち、無気力感、憂鬱を受け止められてはこなかったけれど。

 

 

「【学校の本質は工場】です」というツイートを思い出す。

均質の子どもを6年間という
レーンに乗せて製造する工場

異質とされるものは排除され
同じような価値観の製品をつくる工場

社会が求める水準の人間を作り上げる
ただの工事
それが学校の本質

理想とされる型が確かにあるのかもしれない。

型の枠に入れば少し生きやすくなるのかもしれない。

でも、型の形そのままの人はいない。

不完全な形。

でも完全な人はいない。

 

人は誰でもみんな不完全な一人の人間であり、その人が同じく不完全な一人の人間である治療者と出会い、交わした対話の記録です。治療者として失敗や後悔は残りますが、人生はいつもそういうものだったのですから、著者と私、そして皆さんの人生だって、今よりもよくなる可能性があるのではないかと、自分を慰めています。どうか、多くの挫折で落胆され、不安の中で一日一日を乗り切っておられる、この本を読まれる読者の皆さん、昨日までは見過ごしていたけれど、自分が発しているかもしれない、もう一つの声に耳を傾けていただければと思います。死にたい時でも、トッポッキは食べたいというのが、私たちの気持ちなのですから。

 

 

僕自身も不完全な人間の一人として(そのことは嫌になるくらい自分でもよくわかっているのだけれども)

不完全な子たちと関わっていく。

それは子どもたちを完全な人間にするためではなく…

今を生きる子ども、先を見据える子ども

f:id:megane_kun_ha107:20240203151554j:image

本の感想。

 

という本を読んだ。

 

 

最近よく耳にする「非認知能力」について具体的にどんな力を指すのか、その力がどうやって育まれる/あるいは失われるのかを紹介している本だ。

 

本の中で印象に残ったのが有名なマシュマロ実験に代表されるように、今目の前の報酬に飛びつく子と、先の利益を考えて待つことができる子の違いはなんなのかという話だ。

 

5分先に増えるマシュマロを待てない子、イコール今この瞬間に生きている子、見つけた目の前の利益を熟す前に収穫してしまう子は、実は、経済的な理由で充分に満たされてこなかった、他者が信用できない環境ですぐに自分の利益を確保せざるを得ない…そんな背景が見られるということだ。

自分が持っているものをこの先に奪われるかもしれない、普段から満たされていないからこそ、手にした瞬間にすぐに消費してしまう。それは彼らの生存戦略故の結果だという。

 

 

それと親切について。

意外なことだったが、身近な存在から、知らない存在に親切行為が広がっていくのではないそうだ。幼い子は誰に対しても、見知らぬ他人に対しても親切な行動をする。それが、徐々に親切にしない対象(例えば自分に対して意地悪をしてきた相手など)が増えていくのだとか。

 

僕は支援学校で働いている。

今まで出会ってきた子たちには、今、この瞬間を生きている子たちや、自分のことが一番で「相手のきもちを考えよう」と繰り返し言われてきた子たちがたくさんいる。

彼らが生きていく上で役立つようなスキルを身につけるという視点で関わってきた場面がたくさんある。

彼ら自身の認知や発達の課題だと考えていたのだが、振り返ってみると、家庭環境に思い当たる部分もある。

 

 

子どもだけへの関わりで完結してはいけないということが実感としてもわかってくる。

 実行機能を高めて目の前のご飯をがまんできるようになることで、むしろ生命が脅かされることもあるかもしれません。向社会的行動ができるようになることで、自分の状況を顧みずに他者を優先させてしまうのも困りものです。

 つまり、支援しなければならないのは、子どもの能力だけではなく、周りの環境であるということになります。子どもが未来を選ぶ選択ができるようになったときに、その選択が報われるような環境を設計してあげることが必要になります。

 

それは、子どもの能力への支援は、家庭などの環境とセットで考えていかなければいけないという、障がいの社会モデルに行きつく。

 

未来へ向かう力は、他者への信頼がベースになるという。だから、子どもが信頼できる養育者との関わりをすべきことや、安心、安全を感じられる場を用意することがすべての前提になるのだ。

 

 

本書の中ではモンテッソーリ教育や心の道具プログラムなど個々のプログラムよりも、クラスの雰囲気や先生の関わり方の方が実行能力に大きな影響を与えることも記されていた。

 むしろ実行機能などにとって大事だったのは、クラスの情動的な雰囲気や先生の指示の仕方でした。先生のポジティブな声色とか、子どもがお互いに承認し合うかどうか、先生の指示が上手か、などが実行機能などとかかわっていることが示されています。

 こういう結果をみると、特定のプログラムが大事というよりは、教師や保育士と子どもとの関係性や、クラスの雰囲気などが大事であることがうかがえます。」

 

 

安心安全や信頼が全てのベースになる。

そんな環境が家庭でも、学校でも目の前の子どもたちにとって当たり前であってほしいなぁ。

子どもたちへの想い

f:id:megane_kun_ha107:20231107182559j:image

本の感想。

『ルポ教育虐待 毒親と追いつめられる子どもたち(おおたとしまさ)」という本を読んだ。

 

教育虐待、毒親、教室マルトリートメント…教員という仕事柄、そんな本を読む機会は多い。

僕自身、体罰が当たり前の昭和な体育会系の部活を経験してきた。家庭内では強い父親に面と向かって反抗はせず、小学校教員だった母親から一定の厳しさを受けて育ってきた。

支援学校という場で働く僕は、滅多に怒るようなことはない。怒りに任せて叱ったり、脅したりしても、それで変わるのは一時的なものだし、むしろ後で大きなしっぺ返しを喰らう。

それよりもどうやったら目の前の子たちがこちらが気づいて欲しいことに気づくのか、自分で自分をコントロールする力が育つのか、そのために自分がどんな関わりや工夫ができるのかを考える方がいいじゃん。そんな風に考える。

 

子どもも周りの大人も含めて、みんな一人の人間なのだから、誰もが自分で決めた範囲でしか動こうとはしないものだし、その人のことを決めるのは最終的にはその人なのだ。

自分にできる範囲と、その人が動くしかない範囲とがあるのだ。

 

もちろんそんな風に考えるにはいろんな経験や出会い、失敗を積んできたからだ。

 

それが家に帰り、わが子となるとまた話が変わってくる。

「子どものために…」という危険な囁きが聞こえてくる。

仕事で滅多に怒らないのに(もしかしたらそのことがストレスになっているのかもしれないけれど…)

 

約束を守らない、

しないといけないことをしない、

やりたいことだけをするわが子に対して

イライラしてしまい、怒りをぶつけてしまう。

 

その度に反省する。

仕事の技を生かせないかと考える。

より良いやり方や工夫がないか考える。

うちの子にあった方法はなんだろうか…。

 

 

でも、この本を読んでいて思う。

それは「子どものため」という大義名分で隠したナニカではないか。

「自分がわが子をコントロールしたい、思うようにさせたい」そして「子どもが褒められることが、イコール自分の価値になる」そんな欲望が隠れているのではないかと。

 

 そもそも人生に絶対的な「成功」なんてものはない。いいときと悪いときがあるだけだ。

 どんな人生が「充実していて豊か」なのかは、それぞれのひとが決めること。そのためには、ほかの誰でもない、自分自身のモノサシが必要だ。それがそのひとにとっての「人生の羅針盤」。

 それさえあれば、長い人生という「航海」のなかでたとえ逆風にさらされる日があっても、 1日 1ミリしか前に進めなくても、幸せを追求しつづけられる。どこかにたどり着くことが目的ではなく、自分自身の「人生の羅針盤」に従う「航海」のプロセスそのものが幸せなのだと気づくことができる。

 どんなにいい大学に行こうとも、富や名声を得たとしても、それらの価値が自分ではない誰かに決められているものである限り、それだけでは、自分自身で人生の価値を実感することは難しい。それでは人生の充実感や豊かさを味わうことも難しいのではないか。私はそう思う。

 

生まれてきたときは「元気に育てくれ」とだけ願っていた。

そんな願いはどんどん膨れ上がっていく。

子どものための欲の裏には、親としての欲も隠れている。

 

でも子どもは適切なデータを入力すれば、それにあったものが出力されるような存在ではない。

個々にブレというか違いがあるし、そもそも入力したつもりのデータが入っていないこともある。

いや、データを入力するという考え方自体が間違いだ。

 

僕自身も含めて、不合理で、理不尽で、間違いを繰り返す。

それが人間なのだから。

 

 

僕には僕の「人生の羅針盤」がある。

それは自信を持って言える。

いつからその羅針盤があるのかはわからないし。

それにその羅針盤は僕の両親が期待したものとは違うのかもしれない。

当たり前だ、自分の羅針盤は自分の経験や考えによって形づくられるものなのだから。

 

僕自身の子どもたちへの想いを捨てる訳ではない。

でも、その想いと、受け取る子どもたちが形づくっていくものは、また違う別のものだ。

 

 

期待しないわけではない。

見放すのでもない。

でもうちの子の人生はうちの子のものなのだ。

親の僕はもちろん、うちの子自体の思い通りにもならないものだ。

そんなうちの子が比較的、楽に、楽しく過ごせる日や時間が増えるよう。

受け取られない想いを、期待を抑えて伝えていくしかできないのだ。

 

子どもへ膨らむ期待を、そんな風に抑えることができるのかはわからないけれど。

 

そんなことを考えると、子どものいろんなことを許せるようになりたいなと思う。

目標って大切だなぁとしみじみ感じる

f:id:megane_kun_ha107:20231002082813j:image

娘の話。

 

今朝、娘が珍しく早起きし、こちらがなにも言わずとも着替えはじめ、朝ごはんを食べ、洗顔や歯磨きを終えると、「確認しないと!」と朝のやることリストを自らチェックしていた。

 

リストを確認し終えると「やること全部終わったので、フリーレンの動画見せてください」と妻に交渉していた。

 

どうやら録画できていなかった金曜ロードショーで上映していた『葬送のフリーレン』をTVerで観たいあまり、素早く行動していたようだ。

 

うちの7歳、小学1年生の娘は漫画が大好きで、毎週、週刊少年ジャンプを愛読している。

もちろん意味のわからないものもあるのだろうけれど、漫画と見れば手当たり次第に読むし、時折、難しくて最言葉の意味を尋ねてくる。

 

妻が持っている『ちはやふる』や『SPY×FAMILY』、『葬送のフリーレン』も読んでいる。その流れでアニメにも興味が出てきているのだ。…残念ながら少年ジャンプを読んでいる小学1年生は周りにはいないようだけれど。

 

そして、娘は漫画を読んでいたり、テレビ番組を見ていたりす?間は没頭していて、周りの言葉が耳に入らない。

それで「聞いてるの?!」や「一旦漫画置きなさい!」「もうテレビ消すよ!」とよく注意されているのだが、それは僕が幼い頃に母親から注意されていた様子そっくりで叱りつつも「仕方ないよなぁ」と感じてしまう。

 

漫画やアニメに夢中になると話を聞かないと困るのだけれども

 

でも「読みたい!!!」「見たい!!!」という強い目標があるお陰で、「どうやったら読めるのか」を考えて行動するようになる。

 

親の目を盗んで隠れて読んだり見たりすることもできるけれど、見つかれば叱られるし、しばらく漫画やテレビを禁止されるリスクもある。

 

それの失敗を経験した上で、今回は朝にやることを早く終わらせて読むということを選択し、見事達成できたのだ。

 

 

親に言われたからではなく、

叱られるからでもなく、

自分で「○○したい」と思い、

どうすれば○○ができるかを考え、

実際に行動する

 

そういうことの積み重ねが彼女の行動原理になっていくのだろう。

自分で考えて動く、試行錯誤をしていくためには夢や好きなこと、やりたいことから生まれる目標が必要なのだ。

 

 

夜中に親に隠れて暗闇の中、テレビにイヤホンを繋いでゲームをしていた僕が今どんな人間なのかは言葉では言い表せないけれど笑

 

娘はどんな大人になるんでしょうかね。

亀には亀の苦労がある

f:id:megane_kun_ha107:20230517081236j:image

本の感想。

 

タイトルは『自閉症の僕の七転び八起き(東田 直樹)』という本にあった一文。

 

 支援者が成果だけに注目しがちなのは、毎日やっていると、練習が当たり前になるからでしょう。けれども、練習している僕たちにとっては、当たり前ではありません。

 支援者は「少しずつできるようになればいい」と言ってくれますが、それは、支援者がそう思っているだけで、練習している人たちは、すぐにでもできるようになりたいと考えているのではないでしょうか。

 少しずつでいいのは、周りの人たちの方です。

 少しずつしかできるようにならない人は、練習のたびに心の中で、ため息をついていると思うのです。どんな人だって、自分ができるようになっているかどうかくらいわかっているでしょう。

 その子にとって、無理のないペースの練習なら楽だろうと思わないでほしいのです。亀のような歩みで練習を続けていくのも大変です。

 亀にも亀の苦労があります。

 

支援者と呼ばれる周りの大人たちは、子どものできた/できないばかりみていないだろうか。

「努力の過程を認めましょう」という言葉に代表されらように、努力している/していないという本人の頑張りばかりみていないだろうか。

 

前にも書いたけれど、教員という仕事に就く人の大半は周囲よりも勉強や運動ができた側の人だ。

僕たち人間は自分の目で、自分の偏り凝り固まった考え方のフィルターを通してしか世界を見ることができない。

だから本当の意味で勉強や運動ができない子たちの気持ちは頭では理解できても体感できないのではないか。

 

ラソンを2時間台で走る人はその世界が基準、3時間台、4時間台で走る人はその世界が基準、やっと完走できた人はそこが基準だし、マラソンなんて走りたくないし興味もない人はそこが基準になる。

4時間代の人からみたら、2時間台で常に全力疾走のようなペースで走る人は別世界の超人だし、タイムアウトギリギリの完走やリタイアする人たちは練習不足だと思うのだろう。でも、2時間台に至るまで練習しない自分自身のことを努力不足だと思う人は少ないのではないか。

「マラソンは自分との戦い」なんて言われるけれど、誰しもが自分と闘いながら、自分のペースで前に進み続けている。

そして同じ頑張りでも、前に進むスピードはそれぞれ異なる。

 

 

できることや頑張ることだけを求めていったその先の世界にはなにがあるのだろか。

 

そして閉じている自分の世界の中では、誰もが容易く悲劇のヒロインや孤高のエースになれてしまう。

そしてなかなか自分が亀かもしれないとか、亀の側だったとしたらなんてことは想像しない。

 

 

僕自身にもどうするべきかなんてわからないのだけれども、

誰かの数だけ、誰かの大変さや苦労があるものだし、

それの優劣なんて簡単には比較できないはずなのだ。

誰かを認める人になる

f:id:megane_kun_ha107:20230423222220j:image

できないことを責めるのか、頑張ったことや挑戦したことを認めるのかという話。

 

という本を読んでいる。

 

その本の中で心に残っているフレーズがある。

「世の中には 2種類の人がいます。 1種類は、『誰か自分のこと認めてよ』と、認められるのを待っている人。もう 1種類は、『暇さえあれば、すきあらば、人のことをアクノレッジしよう』と思って生きている人。僕は後者を選ぼうと決めたんです」

 

 

以前読んだあべまさいさんの本にも同じエピソードが掲載されていた。

 

そのときから僕も『暇さえあれば、すきあらば、人のことを認めることのできる人』になりたいなとぼんやり考えるようになった。

 

 

 

できていないことを責めるよりも、

ここまでできたことを認められるように。

「できてないやん」じゃなくて「どこまでできたの?」と子どもに尋ねる。

 

間違ったり、失敗してもいいと伝える。

自分が失敗してきた話を伝える。

それが子どもたちが挑戦できるために必要なことだから。

 

家でも職場でも

子どもたちのちょっとしたできるようになった瞬間に「いいね」「できたね」と伝える。

そのために子どもたちのことをよく見ておく。

 

どうして欲しいのかを

不機嫌や曖昧な言葉ではなく、

具体的に相手に伝わる文脈で伝える。

 

「なんでできない、わからないの」じゃなく

「どうすればできる、わかるようになるのか」を僕自身が考える。

 

叱って怒って脅して子どもを動かすのではなく

子どもたちのしんどい、だるい、めんどくさい、できない気持ちを受け止めつつ、

選択肢のメリットデメリットを伝えたり、

どこまでならいけるかを話し合いながら提案・交渉するアプローチをして、

子どもたちが自分自身で考えられるように提示する。

 

 

多分、僕がこの先歩んでいくのはめんどくさい道だ。

 

「厳しく叱った方が子どものためになる」なんて声のデカい人たちが言う。

「ちゃんとしないと(怖い)●●先生が来るよ」なんて言う同僚もいる。

そんな周りの人から見られるプレッシャーの中で「子どもたちにちゃんとさせないと」なんて考えてしまう自分もいる(これは子どもではなく自分の問題なのだけれども)。

 

 

でも子どもたちに粘り強く働きかけて、

「ここまではいける?」

「いけたやん、いぇーい」

と小さなやり取りを一つずつ積んでいくような僕の関わりを認めてくれる人もいる。

 

 

もちろん僕の関わり方には即効性はない(いや、叱ることには即効性はあるけれど中毒性と半減性がある上に、後で強烈なしっぺ返しがあるのだけれども)。

めんどくさい上に効果があるとは限らない(見返りばかり求めてたら子どもたちと関わるこの仕事をやっていられないけれどね)。

 

 

でも、そんな関わりの中で子どもたちを認める人になれたら

そして幸運にも子どもたちが何かのきっかけでちょっとずつ前向きになって一歩前に進めたのなら

こんなに嬉しいことってないじゃないですか。

 

そういう人に僕はなりたい。

 

なんて思ってます。