メガネくんのブログ

何となく日々思ったことを書いていくブログです。教育や本の感想なんかも書いてます。表紙の画像は大体ネタです。

『親は子に何を教えるべきか』

f:id:megane_kun_ha107:20210723154421j:image

本の感想。

 

「親は子に何を教えるべきか(外山滋比古)」 という本を読んだ。

 

1991年のことだから随分と前の本である。

でも家庭でのしつけの肩代わりを求められる学校やテレビ(今だとインターネットか接続の影響、権威を失った父親など今と通ずるものがたくさんある。

著者が、「三つ子の魂、百まで」「鉄は熱いうちに打て」「かわいい子には旅をさせよ」などのことわざを引き合いに出しながら、権威としての学校・教員の必要性と、家庭教育の重要性を繰り返す。

 

 教育は学校でやるもの、やってくれるもの、というのも、こまった現代の神話である。学校へ入って来る児童は、すでに相当さめて冷えた鉄である。もっと熱いうちに何もしないでおいて、学校へ入るころになってから、さあ、どこの学校にするか、大騒ぎして、願書を出すのに徹夜したというのが、誇り高き教育ママだというのだから笑わせる。

 それまで、教育ママは何をしていたのか。すくなくとも、教育をしたという自覚はあるまい。

 生まれたばかりの赤ん坊は何も知らないが、熱い鉄ということから言えば、これほど熱い鉄はない。教えることは何でも覚えてしまう。教えたつもりのないことまでも覚える。いちばん大切なのは言葉だから、赤ん坊はまず言葉を覚える。何も知らないよが、二年もすれば曲がりなりにもわかるようになる。すばらしいことである。どうしてこういう奇蹟がおこるのかよくわからない。

 その言葉の先生はだれか。言わずと知れたこと、お母さんである。言葉を覚えることでめきめき知恵がついてくる。言葉はいわば精神の母乳である。その栄養が足りないと、三つ子の魂の発育もよくなくなるであろう。

 

確かに学校現場で働いていて、学校という場所でしか関われない僕たちにできることは限られている。

子どもにしても保護者にしてもそれまでの年月をかけて積み上げてきたものを変えていくのはなかなかに大変だ。

もちろん鉄が冷めたからといって打たないわけではないのだけれど、もう少し早くに出会っていればと思うことがある。

 

 人間にも味がある。おもしろい人間もあれば、さっぱりおもしろくない人もある。どことなく人をひきつける魅力はどうしてできるのか、と考えるときに、このぶどうの教訓が役に立つ。

 人間は陽の当る温かいところだけで生きていても人間味が出てこない。陽が沈んでで寒くなる逆境をくぐるたびに、少しずつ甘さをます。苦しいことにじっと耐える。それを通じて、知らず知らずのうちに人間の幅が出るのは、温度が下がって甘味を濃くするぶどうと違うところはないように思われる。

 そうかといって、冷たい逆境の連続がよいわけではない。北極や南極でぶどう育てることは考えられもしない。温かいのと寒いのが交錯するところがいい。幸福なだけでもいけないが、さりとて、不幸だけでもいけない。幸福と不幸が交錯しているのが理想的なのであろう。

「かわいい子には旅をさせよ」という言葉がある。また今読んでいる別の本にも、「去勢(自分が万能であることをあきらめること)を否認させる」教育システムという言葉があった。

個人的にもほめたり、成功することだけを積み重ねたいくのではなく、できないことや失敗することも含めて自分を受け入れるのが大事なのではないかと思う。

 

 人間の文化はすべて、くりかえしを基礎にもっているようだが、言葉はその典型である。くりかえされているうちに、慣用ができる。慣用の確立したものには意味ができる。意味のあるものが価値をつくり、その価値の組織の上にその社会の文化が発達する。くりかえしを離れて人間文化はあり得ない、と言ってよい。

 大人はくりかえしを退屈だと思うことが多い。同じことを何度も言うと、うるさい、と感じる。なるべく、あっさり、しようということになるわけだが、このやり方をこどもにあてはめては、こどもが迷惑する。こどもは大人のように、くりかえしをうるさいと思っていない。そればかりか、むしろ、同じことを何度も聞くことに喜びを示す。おとぎ話をねだるこどものしつこさは、大人をへきえきさせる。くりかえしきいているうちに、慣用による理解が生まれるわけだから、大人が自分であきたからといって、くりかえしを止めるのはよろしくない。

 これは言葉だけの問題ではない。生活や行動においても、基本的なものをくりかえすことの意義は、どんなに重視してもしすぎることはない。ものごとの意味を説明したり、理屈をいったりすることは、こどもにとってあまり効果がない。だまって、いいと思うことをくりかえす。そうすれば、すぐれた文化を自然に身につけるようになる。いまの教育は全般に、このくりかえしの価値を忘れている。暗誦などは古くさいとされているが、はたしてそうかどうか、考えてみたいものだ。

基礎や基本とはどういうものなのだろうか?著者のこの言葉は、友だちに手紙を書きたい一心で毎日鉛筆を握り、繰り返し手紙を書くことでひらがなを覚えていった娘の姿を連想させる。

応用や活用だけでなく、基礎基本をくりかえすことの大切さを忘れてはいないだろうか。

 

僕ら親は子に何を教えるべきなのだろうか。

教員である僕は、家でもときどきその顔が出てしまう。

多分、学校と家庭で必要な関わりは違う。

大体、うちの母親も教員で、学校にも家にも先生がいるのは嫌だった。

親として何を教えるのか。

自分なりの答えを探しながら、今日もうちの子たちはすくすく育っていく。

目指すべきは子どもの「より良い状態」

f:id:megane_kun_ha107:20210720230354j:image

本の感想。

 

『ひきこもりはなぜ「治る」のか?(斎藤環)』という本を読んだ。

 

いくつか忘備録的に。

 不登校やひきこもりに関しては、何が何でも再適応すべしという一派と、何が何でも適応から解放させるべしという一派との不毛な対立がずっと続いていたように思います。治療や支援の目標が「本人が元気になること」であるならば、いずれもそんなに色までなかったと思うのですが。

「元気」という目標については、もうちょっと広く応用できるような言い方に直すならば、「より良い状態」と言い換えてもいいでしょう。「どうすれば個人としてより良い状態になれるか」ということに焦点を当てて考えれば、問題解決の方向性はいかに多様であるか、いかにその人それぞれに向いた方向性があると言うことが、もう少し見えてくると思います。

 病気の治療と違うところは、元気になるための万人向けのマニュアルなどない、という点でしょうか。「元気」という目標設定は、その意味では「問いの立て直し」と考えることもできます。

学校での子どもへの支援の在り方の光景を思い出します。厳しくするのか、甘やかす(個人的には甘やかすではなくて、環境を整えて支援を充実させることなのだが)のどちらにするのかで揉めるときの、宗派の対立にも似たヒステリックな情景だ。

どちらが正解とは限らないかもしれないが、その子のことを考えているという点では同じだったはずが、いつのまにかイデオロギー上の対立にすり替わってしまう摩訶不思議。

そして話し合いの結果が、英知の結晶ではなく妥協の産物となる確率の高いこと…

 

 赤ん坊にとっての母親は複数います。例えば、一人の母親が「良いおっぱい」か「悪いおっぱい」かという具合に、別々に認識されるのです。目の前の母親がもし泣いていてもミルクをなかなかくれなければ、悪いおっぱいと認識されます。逆に、すぐにミルクを与えてくれれば、良いおっぱいとして認識されます。これは非常に未熟な認識ですが、実はこういう認識は、人間に一生ついて回る認識の一つのパターンなのです。

 お母さんが親切だと子どもも愛情を返します。愛情を返すと良いおっぱいは自分に対してますます優しくなって、そこで良い循環が生じてくるのです。こうして心の中に、良いおっぱいが良い対象として内面化されていきます。

 良い対象があることによって、対象の統合が進んでいきます。それまで別々にとらえられていた悪い対象と良い対象が、実は同じ一つの対象であることが認識されていくのです。

 そのためにも、良い対処を取り込むと言う過程は欠かせません。良いおっぱいの機能を十分に使うことによって、最終的には対象の統合が起こるということがクラインの主張なのです。

読んでいる別の本にも書かれていたし、今書いているnote記事にもそうなのだけれど、人間は周りの他者をモデルにして自分に取り込んでいる。だから叱るより前に見本となるよう、子どもの攻撃性が気になるのならば親は攻撃性を捨てる。子どもに外に出てほしいのなら、親がまず外に出るなんて関わり方も大事なんじゃないだろうか。

 

 ただし、私の治療は、どのような場合でも基本的に「本人の自発性」を最大限に優先します。本人が自発的に希望したことは、人に迷惑がかかるようなことを除けば、常に優先されるべきです。少しばかり非現実的であったり、危なっかしいようであっても、「実験だから」とダメもとで送り出してみるのです。

 実際に始めてみると、どれだけリスクがあって失敗そうなことであっても、本人が自発的に始めたことは結構長く続くことが多いのです。そういうなかから失敗を通じて学習もするでしょうし、さまざまな人との出会いは、コフートのところで述べたような「自己-対象」との出会いとしても、大いに機能するでしょう。

 何かを捜している途中で思いがけず別のものをみつけてしまうことを、「セレンディピティ」といいます。彼らの自発性を尊重することで、そこにさまざまなセレンディピティが期待できるということ、これは経験的にも間違いのないところです。治療の中には、こういう「ゆきあたりばったり」も必要ではないかと、私は考えています。

自分の子育てや仕事上で子どもに手を出しそうになったのを我慢して見守るときのことを思い浮かべます。失敗するのもその子の権利なのだから…。

 

 多くの場合、ひきこもり状態はいろいろな要因が複合した結果なので、誰か一人が犯人とか、この事件だけが犯人、ということはなかなかいえません。不毛かもしれない原因究明に一生懸命になるより、「この困った状況に対してどんなふうに対処しようと試みましたか」「その結果どうなりましたか」「これからどういうふうになりたいと思いますか」などといった方面からのアプローチを試みる方がよいのです。

 神田橋さんによれば、患者さんのなかにある、一見「欠点」と思われるような部分にすら、立ち直りのヒントが隠されている、ということになります。

 人を責めてばかりいる人に対しては「批判能力が高い」と考え、拒食症の患者さんに対しては「断食能力が高い」と考えてみるのです。もちろんひきこもりの人に対しては「ひきこもり能力」が高いと考えることになります。これは一見、言葉遊びにみえるかもしれませんが、そうではありません。

 例えばひきこもっている人は、一般の若者に比べてコミニケーションには自信がない代わりに、非常に我慢強いことがよくあります。何の娯楽もなくても、お金を使わなくても、お酒やドラックに走らなくても、ときにはひもじくても粗食でしのげるくらい、彼らは我慢強いのです。

 そういう能力を一概にして否定してしまうことは、その人の生きるよすがを否定してしまうことです。むしろ、そういう能力を、どんな形で社会生活に活かせるかを考える方が良いでしょう。

長所は短所、短所は長所とよくいうが、その人の尖った部分を削って丸くするのか(その分小さくなるかもしれない)、その尖った部分を使うのか。

 

 

 

それ以外にも、自信はないけれどプライドは高い(と周りからは思われる)ひきこもりの心理や、本人と家族だけでなく第三者との関わりや、公正なルールは第三者の代わりになること、追い詰められればなんとかならずに飢え死にを選ぶなどもあり得ること、そのために親なき後のライフプランもシュミレーションしておくべきなど、なるほどと納得することが多かった。

そして僕らは今日も「きっつー」と言って荒波を乗り切る

f:id:megane_kun_ha107:20210720082259j:image

本の話。

 

『ぼくは会社員という生き方に絶望はしていない。ただ、今の職場にずっと……と考えると胃に穴があきそうになる。(フミコフミオ)』という本を読んで考えたこと。

 

 

フミコフミオさんは語る

「空気って読まないといけないの」

「相手の気持ちなんかわかるわけない」

「厳しい環境でしか学ばないことがあるなんて嘘だ」

「優秀な歯車は素晴らしい」

などなど

 

一見すると社会で言われていることとは逆説的に物事の本質をついているかのようなシニカルでコミカルな語り口。

でも僕が共感するのはそこではない。

 

彼なりの心理や理念がありながら、会社の上司や取引先、あるいは奥様を前にしてそれを曲げに曲げ、強烈なダメ出しを食らっても「きっつー」と言って乗り越えていく。

そんな彼なりの強かさに共感し、励まされる自分がいる。

クソなことに対してクソと思ってもいい。

ダメな自分のままでいても負けなければ人生に負けはない。

それも含めた自分の人生のジャッジを他人ではなく、自分で下すために。

今日も「きっつー」と言い訳をしつつ、山積みの問題を一つひとつへーこらしながら乗り越えていくのだ。

人生というクソゲーを。

多分。

 

頭でっかちで動かないより、行動する人になりたい

f:id:megane_kun_ha107:20200828201039j:image

「インスピレーションが浮かぶのを待っていてはいけない」という写真作家のチャック・クロースの言葉から。



写真作家のチャック・クロースは「インスピレーションが浮かぶのを持ってはいけない」とアドバイスする。もっともよいアイデアは、常に作業をする過程で出てくるからだ。インスピレーションが働かないので文章が書けないという人が多いが、実際は文章を書き始めないからインスピレーションがわかないのだ。まだ準備ができていないので始められないという人も多いが、実際は始めないから準備ができないことの方が多い。

『「後回し」にしない技術(イ・ミンギュ)』より

 

この言葉は、「考えるだけの天才より、行動する馬鹿が勝つって事だ!!もちろん僕は別格だぞ!!僕は行動する天才だからな。」という台詞を思い出させる。

そう、どんなに優れたアイデアでと温めているだけではそこで終わりだ。

 

でもなにも考えていなくても、まずはじめてみると良くないところ、改善するべきところがだんだん見えてくる。

これは完璧に思えたアイデアでも同じだ。

最初から全てが完璧なんてことはない。

もしかしたら完璧なんてものはイデア界に置き忘れた幻想のようなもので、僕たちはないはずの完璧を追い求めているだけなのかもしれない。

でも愚直に進めていき、トライ&エラーで一歩ずつ進んでいく。

寝ても覚めてもそのことばかり考えている。

そんな状況のときにアイデアの神様はヒントをくれるのかもしれない。

 

 

「まだ準備ができていないから」

「どうなるかわからないから」

は断ったり中止するための理由ではないのかもしれない。

まだ準備ができていない、「だからこそまずトライしてみてデータを集めるべきだ」

あるいは、

どうなるかわからない、からこそ「まずやってみよう」

それが実はもっともパフォーマンスの良い方法なのかもしれない。

 

もちろん、なんでも愚直に進むのがよいという訳ではない。

なにを優先するのか、なにのために行うのかという優先すべき目的があって、それに向かっていくと決めた時の話だ。

 

特に僕の働く教育界隈は変化を嫌う風潮が強いように思う。

新しいことを始めると粗探しが始まる。

多くの人が重い腰を上げない。

失敗することを否定する。

でも、

教える立場の大人が、失敗を受け入れた上でトライ&エラーで前に進みつつ改善していく姿を見せられるのなら…

子どもたちのとるべき姿勢も変わってくるんじゃないだろうかなんて思ったり。

 

見方が変われば全てが違って見える「後回し」にしない技術

f:id:megane_kun_ha107:20210718200633j:image

本の感想。

 

『「後回し」にしない技術(イ・ミンギュ)』といく本を読んだ。

 

自己啓発の本なのだろう。

何冊かの自己啓発の本を読んできた僕には馴染みの深い習慣もあった笑

 

人間はどうでもいいことに逃げてしまうので、先に本当に大事なことから始める。

周りに宣言することで「やらなければいけない環境」に自分を追い込む。

などなど

いくつかは過去にもブログで書いたテーマだ。

何かをやめるということは、何かをはじめるということだ - メガネくんのブログ

備えておかないと動けない 事故対応の経験から - メガネくんのブログ

 

いくつか心に残しておきたい言葉があった。

  

人は決して失敗しない。ただ途中でやめているだけだ。

負け惜しみではない。もう一度がなければ存在し得なかった成功の数々が依然としてあるのだ。トーマス・エジソンが電球の発明を諦めずに千回も試行錯誤を続けたのは、電球の発明ではなく、電球が普及し、電力が世界を多う世界を想像し、それを目指したからだという。

心が折れそうになったとき、諦めかけたときに思い出したい言葉だ。

 

すべてが実験だと思えば人生は180度変わる

僕たちはなぜそんなにも失敗を恐れるのだろう。失敗は成功の母であるのと同時に、失敗とは一つの可能性の消去で、その一歩分は成功へと近づいているということなのに。

別のエピソードとして、20人に1人の割合で車の営業が成功するとして、最初の一人に断られたときに「あと20回も断られるのか」と考えるのか、「あと19回で一回契約できるぞ」と考えるのかでは随分と違うように感じる。

あるいは営業成功で200万売り上げらのなら、一回断られることは、実質「10万売り上げる」ことと同じと捉えることもできる。

 

人生でもっとも破壊的な単語は「あとで」

ベストタイミングは常に「いま」だ

その通り、時間が過ぎれば身体も精神もどんどん重く固まり、動き出すのが億劫になる。

だからこそ、すぐ動くべきだし、すぐに動くための技術を使わなければならない。

 

そう、後回しにせず、大事なことを優先するんだ。

 

この本を読み終えてそう思った僕は、食べていたアイスの袋を置きっぱなしにしていたことを妻に見咎められ「いつも置いたまま片付けるのを忘れるんだから」と注意された。

まだまだ僕の道のりは遠いみたいだ。

家庭が子どもの心を作っている

f:id:megane_kun_ha107:20210718143419j:image

本の感想。

 

『普通のお母さんが「特別支援学級」で働いてみました。 特別支援学級から見た子ども達(菊地 たか子)』という本を読んだ。

 

タイトルの通り、3番目の息子が発達障がいの診断を受けたお母さんが、息子の小学校進学とあわせて近隣小学校の特別支援学校で支援員として働き始めてみたというお話。

 

僕自身も支援学校の教員でもあり、5歳の娘と2歳の息子の父親でもある。

保育園に送り迎えに行くと、いろんな光景を目にする。

ちょっと気になる子が目について話しかけてみたり。

衣服やタオルの間違いや怪我をした/させたで先生から謝られることもある。

保護者でもあるのだけれども、仕事柄保育園の先生方の大変さなんかもよくわかるので、いつも「いえ、大丈夫です。お気になさらず」と答えてしまいがちだ。子ども同士のトラブルなんてあって当たり前だと思うからだ。

 

話が僕自身の個人的なものになってしまったか、この本の著者も障がい児をもつ親という立場と特別支援学級の支援員という2つの立場を経験することで、それまでとは学校や子ども、あるいは家庭に対するモノの見方が変化していく。

 

  • 保育園で「お母さん、実はゆうすけ君だけ、まだ人のお顔がかけないんです」と言われたこと
  • 放課後デイサービスやスイミングなどにも通わせていて、息子を、少しでも「普通」に近づかせたいと思うカイトくんのお母さん
  • あまりみきちゃんに興味がなく、今は新しい彼氏に夢中な、みきちゃんのママ。ママが彼氏のところに行っていていない日は、特に学校で乱暴になるみきちゃん
  • 自分がやりたいからでなく、親の意向で毎日きちんと習い事をこなす子どもたち
  • 家族の温かさがある家に暮らしている子供たちには、心の「ゆとり」があると感じたこと

 

そうした経験を経て、「家庭が子どもの心を作っている」という気づきに至ります。

僕は自分の子どもにも、毎日関わる学校の子どもたちにもそれは当てはまることだと思います。

子どもたちは家庭から本当に多くの影響を受け、身につけます。

前にも書いたけれど、僕の叱り方は母親そっくりでその叱り方を今度は娘が引き継いでいる。別に教えた訳ではないのに。

母の叱り方、僕の叱り方、娘の叱り方「親の影響は思いもよらず大きい」 - メガネくんのブログ

 

だから、子どもを叱るよりも、自分がお手本になっているかどうかを振り返ってみてほしい。

子どもにゆとりを感じる間があるかどうかを振り返ってほしい。

子どもの人生は親のものではなくその子自身のものだと考えてほしい。

手を出すところと我慢して見守ることのラインを考えてみてほしい。

僕自身もできていないことだらけだけれど、とても大切なこと。

 

だって、学校でも、塾でも、習い事でも、学童や放課後デイでもなく、その子の一番の基礎になるのは家庭なのだから。

家庭が子どもの心をつくっているんだから。

子どものお腹をいっぱいにしない

f:id:megane_kun_ha107:20210714084607j:image

物足りなさの大切さについての話。

 

会えない時間がー

愛 育てるのさー

目ーをつぶれば

君がいーるー

(「よろしく哀愁郷ひろみ

 

という歌がある。

この会えない時間という満たされない部分があるからこそ、会いたい気持ちという次への渇望がより強くなるのだろう。

 

焼肉を腹八分目で止めておくとまた次回も焼肉を食べたくなるとか。

ブログやnote記事をおっ結構書けてるぞみたいなところで、一旦休憩を挟んどくとか。

1時間で10キロ走るんじゃなくて、20分で3キロ弱を軽く流して終わるとか。

そんな感じか。

 

ちなみに餃子もフライドチキンもカレーも仲間内の大食いチャレンジ企画で挑戦したことがあるけれど、腹八分目どころか腹十二分目くらいまで食べると、そのあと数ヶ月は食べたくなくなる。

王将の餃子を見ても吐き気しかしなかったし、一緒にチャレンジした友人はケンタッキーフライドチキンの衣を剥いで鶏肉を食べていた。

なんでもほどほどが肝心なのだろう。

 

それはおそらく、子どもにとっても同じだ。

僕たち周りの大人は、ついよかれと思って「次の課題は…」とか「こうした方がもっと良くなるよ…」とかいう言葉をかけたり、「じゃあまだ時間があるから追加のプリントね」と約束よりも課題をマシマシにしてしまう。

やりたくない課題が二郎系でマシマシにされたら萎えてしまうよね。

それは約束を破った不信感や、子どもの徒労感に繋がる。

 

それだけでなく、ここで言いたいのは、やり終えた余韻や達成感に浸る時間や、「腹八分目でまだまだいけるんですけど」という物足りなさを感じる時間って大事じゃないのかな?ということだ。

 

やらされてやる学習よりも、自分から主体的に学ぶ学習の方が効果は高い。

 

僕が高校生のとき、同じ学校で定時制があった関係で練習時間が限られていた。

そのときの監督は「体育館で練習できる時間は限られている、だから何をどう練習するを考えろ。頭を使え。」と言っていた。

今はその言葉の持つ大事な意味がよくわかる。

 

「もっとやってみたい!」

子どもたちがそう思い、自ら動いていくためにも、大人が手を出しすぎないことやお腹いっぱいになるまで与えすぎないことって大事だなぁと思った。