メガネくんのブログ

何となく日々思ったことを書いていくブログです。教育や本の感想なんかも書いてます。表紙の画像は大体ネタです。

通訳者あるいは翻訳者として『ニューロダイバーシティの教科書』

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本の感想。

 

「ニューロダイバーシティの教科書(村中直人)』のいう本を読んだ。

筆者の村中さん(いつも通り直人さんと呼ばせてもらう)は、個人的な縁があって研修会にも参加させていただいたこともある。

ニューロダイバーシティとは脳・神経の多様性という意味の言葉で、いわゆるASD自閉スペクトラム症)にとどまらず、人の脳・神経の違いによる多様性とその特性を受け入れ、ひとつの文化として認めていこうという動きのことです。

本の中には、脳・神経の違いに由来する神経学的多数派と少数派の特性の違いが説明されている。

 

以前に直人さんの研修会で聞いた、もしほとんどの人に羽が生えて空が飛べるならを考えたとき、(あるいはメガネユーザーの僕がよく例える、この世に眼鏡がなかったらを考えたとき)、世の中は多数派にとって都合のいいように設計されていくのだろう。

好き多数派の人の脳は他者を意識し、生後間もない時期から母親などのヒトの顔や声がわかるとそちらに釘付けになる。当たり前のように思うけれど、これってとっても不思議だ。

この社会もそう、本でいう神経学的多数派にとって都合の良いように設計されている。

あるいは盲学校で働いていた僕に言わせると、目の見えることを前提として設計された社会といってもいいかもしれない。

 

相手の立場に立って考えるという言葉がある。

でも、自分と相手とで世界の認知の仕方が違うなら、直感だけで相手の立場に立ったつもりになるのは危険だ。

少数者の特性を理解した上での設計が必要になるし、彼らの言葉を翻訳、あるいは通訳する立場の人が不可欠だ。それがなければ絵に描いた餅になるし、この社会でそういう事例には事欠かない。

 

多分自分は神経学的少数派と多数派の間にいるのだろう。少なからずそういう傾向があるだろうとは自覚していたし、大学時代の手話やガイドヘルパー、障がい児学童(今で言う放課後デイ)、作業所、グループホーム、大学進学塾でのバイト経験や支援学校生徒たちと遊ぶボランティア活動、支援学校で働き出してからの経験と学び、それらから得たものもある。

教育についての内容には読みながらうなずくことも多かった。

 ニューロダイバーシティ視点がなぜ重要か。

 子どもたち一人ひとりに合った学び方には多様性が存在しているという、言葉にしてしまうと至極当然な結論の、科学的な根拠となってくれるからです。そして残念ながらこの視点は、今までの日本の一般的な教育において「忘れ去られた」と言ってもいいくらいに乏しい視点であると私は思っています。「自分に合った学び方を選ぶ」、もしくは「自分に合った学び方を学ぶ」という余地はとても小さくて、そもそも多様な学び方を尊重すると言う発想自体がまだまだ一般的とは言えないように思います。もっと言えば、教育とは「同年代の子どもたちが何十人か1か所に集められ、同一の基準や方法によって平等、同質に教わるものであって、それが当然だ」と思っておられる方がまだまだ多いように思います。

 

支援学校で教える立場の自分は、学校にいる間に自分の得意な学び方や覚え方を身につけられるよう、子どもの特性を分析しながら、いろいろな方法を提示している(つもりだ)。でも、支援学校においてもそのやり方が一般的とは言えないのが現状だ。自分が学んだやり方以外を身につけて提示するようになるのは、いろんな壁があるのかもしれない。僕がその壁を越えることができたのは、現場や研修会や本で様々な出会いと経験が幸運にもあったからなのだろう。

子どもたちの気になる行動についても「なんでそうなの!」と叱るのではなく(もちろん場合によっては叱ることもある)、「なんでそんな行動をするのだろう?どうすれば意識や行動が変わるのだろう?」と考えるようにしてきた。

 これらの「違い」たちは日々の関わりやコミニケーションに大きな影を落としてしまうことがよくあって、場合によっては深く傷つけあったり、否定、拒絶しあったりすることにだってつながってしまいます。

どれもとても深刻な問題ですが、ほとんどの場合その背景要因として、脳や神経、認知特性由来の文化の違いが横たわっていることに気づく事は難しいかと思います。

 そんな時に、専門性の高い支援者、教育者が双方の「当たり前」の違いについて正しく理解し、脳や神経由来の文化の通訳者、翻訳者となることができるならば、当事者の人たちにとって有益な助け手となり得ると思うのです。逆に言うと通訳者となりえる第三者の存在なしには、事態が改善しないような状態もたくさんあるのだと思っています。

 

そんな自分の在り方は、このニューロダイバーシティの視点である多様な学び方や、お互いが当たり前の違いを翻訳して繋げる仕事をする上で、多少なりとも役に立ってきた気がする。

 

僕には脳機能の難しいことはわからない(高校は地学選択の文系だ)けど、この通訳者としての仕事はどんどん続けていっていいんだよ、むしろ頼むよと背中を押された気が勝手にしている。

 

僕自身、妻や子どもたちと分かり合えない場面が多々あるし、仕事などでの経験から、それが当たり前のことだと思っている。

それに気づけたのは、日々関わっている子どもたちのお陰なのだろう。

 

そんな「みんなが違うという当たり前」がみんなの「当たり前」になれば(なんだかソクラテス無知の知みたいだ)、この社会の在り方も変わるのかなぁ(死にかけのロバの周りを飛び回る虻になったり、毒にんじんの盃を仰ぎたくはないけどね)。

「強いよね、あっいい意味でだけどね」と言われる

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僕は自分では自身のことを弱い人間だと思っている。

大きな仕事の前は体調が悪くなるし、研修会なんかで大勢の前で話す時は未だに足が震える。

ストレスにも弱い。

怒声や威圧が苦手だ。

すぐに心臓がドキドキする。

喧嘩も弱い。

あまり怒ったり厳しくしたりするのは好きじゃない。

左腕の骨折に気づかずに2時間くらい運転してスノボから帰ったことがあるので、痛みにはちょっとだけ強いのかもしれないけれど。

 

前の職場で中間管理職みたいな立場の仕事をしていて、管理職から命じられ、自分より年配の同僚(立場上は僕がまとめ役だけども)からはなじられ、そんな日々が嫌で嫌で仕事に行きたくないと毎朝思っていた。

僕はそれを僕自身が弱いからだと思っていた。

強い人ならそのくらいの逆境も跳ね返したり、言い返したりするんだろうなと思っていた。

(別に自分の弱さが嫌いなわけではないのだけれど)

 

僕は相担任の先輩みたいな人こそが強い人だと思っているのだけれども(それを言うと怒られるだろう笑)

人の心はわからない。

強さの基準は、人それぞれみたいだ。

Different Strokes by Different Folks

 

そう言われたのは、懇談で保護者と話すとき、あるいは別の年配の相担任の方と話すときだけ。

何度も言うが相担任の先生の方がズケズケものを言っている(と僕は思う)。

僕は慎重に言葉を選び、子どものために譲れない部分をどうにかしてわかってもらいたいと伝えているだけだ(と僕は思っている)。

はじめて3年間担任を持ったとき、あるいは中間管理職時代に子どもを巡って場所が真っ二つに割れたとき、そのときはそのときで必死だったし、悩みながら決断を下したので全てを悔いているわけではないのだけれども、「もしもあの瞬間に戻れるなら」と思う経験があった。

それを繰り返したくなくて、僕なりにもがいているだけだ。

 

村上春樹の言葉を借りるなら、必死にステップを踏みながら踊っているだけだ。

「踊るんだよ」
「音楽の鳴っている間はとにかく踊り続けるんだ。おいらの言っていることはわかるかい?踊るんだ。踊り続けるんだ何故踊るかなんて考えちゃいけない。意味なんてことは考えちゃいけない。意味なんてもともとないんだ。そんなこと考えだしたら足が停まる。一度足が停まったら、もうおいらには何ともしてあげられなくなってしまう。あんたの繋がりはもう何もなくなってしまう。永遠になくなってしまうんだよ。そうするとあんたはこっちの世界の中でしか生きていけなくなってしまう。どんどんこっちの世界に引き込まれてしまうんだ。だから足を停めちゃいけない。どれだけ馬鹿馬鹿しく思えても、そんなこと気にしちゃいけない。きちんとステップを踏んで踊り続けるんだよ。そして固まってしまったものを少しずつでもいいからほぐしていくんだよ。まだ手遅れになっていないものもあるはずだ。使えるものは全部使うんだよ。ベストを尽くすんだよ。怖がることは何もない。あんたはたしかに疲れている。疲れて、脅えている。誰にでもそういう時がある。何もかもが間違っているように感じられるんだ。だから足が停まってしまう」
「でも踊るしかないんだよ」
「それもとびっきり上手く踊るんだ。みんなが感心するくらいに。そうすればおいらもあんたのことを、手伝ってあげられるかもしれない。だから踊るんだよ。音楽の続く限り」
オドルンダヨ。オンガクノツヅクカギリ。 

 

あーなんだか村上春樹が読みたくなってきた僕は、そろそろ村上春樹症候群の時期なのかもしれない。仕事でいろいろあったしね。

 

強さが何かはわからないけれど、弱い僕は大事なもののために今日も明日も必死で踊り続けるだけだ。それしかできないのだから。

もう一度「ムーブユアバス」を読む

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本の話。

 

「ムーブユアバス(ロン・クラーク/橘明美)」 という本を職場の年下上司に勧めてみた。

ムーブ ユア バス

ムーブ ユア バス

 

 

この本については以前にもブログで書いた。

『ムーブ ユア バス』ランナーがいない組織はどうなるのか - メガネくんのブログ

 

今の職場のチームは、ほとんどみんなが前を向いていて、特に若い人たちが熱意と意欲を持って取り組んでいる。チームみんなで支え合おうという意識も共有できている。新参者ながらとても心強く思っている。

子どものことについてみんな大好きで語り出したら止まらない。そのせいで帰るのがちょっと遅くなってしまがちだ。

でもやはり全員が同じ方向を向いてとはならない。高齢だからか。いや、高齢でも、あふれる熱意を持っている目標にしたい先輩はいる。

 

問題はそのライダーにかける手間、コストと心理的な負担なのだ。

相担任の先輩は、「あの人たちいいよね。ちょっといつもより連絡帳をあっさあ多く書いたからって『ありがとうございます』って言ってもらえて。私のときは言うてくれへんやろ。」と言っていた笑。

そして何かトラブルが起きたときの対応や、2度3度と同じ説明をすること、いろんなことを指摘しても直してくれないことを重ねていくと、だんだん「自分(と相担任)がやった方が早いし効率いいし疲れないのでは…」と思ってしまう。もちろんそうはせずに、任せてお願いするのだけれども…。

 

管理職からは「いろいろな人がいるのはわかるけれど、子どもに関わることだからチームとしてどうするかを考えてほしい」と言われる。その立場はわかるし、個人へ責任を追求するのではなく組織としてどうするのかという話もわかる。講師不足が現実問題となっている今、辞められたら物理的に学校を回せなくなると言うのもわかる。

でも、それでも、「わかっているよ」という一言やその想いが伝われば…こちらの想いも変わると思うんだろうけどなぁ。

 

はぁ…今年もあとちょっと…頑張ろう…ぼちぼちと。

自分からの声を少し弱めて、他者の声を素直に受け止めてみる

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忘備録的に、ちょっと心の重荷を軽くしてくれたツイートについて

 

 

以下、引用

質問(他者からの評価と成長)

十代後半の学生です。 私は今までの人生で、「1. 身の丈に合わない評価を受ける」→「2. Imposter Sydromeに苦しむ」→「3. 何とか評価に見合うように努力する」→「4. 成長する」という流れを何度も繰り返してきました。意識的にこうなるようにしていた訳ではなく、主に外的影響でこうなっていました。 自分の今までの人生がこのサイクルだったことを最近自覚したのですが、自覚した今、これを意識的に続けるべきかどうか悩んでいます。 幸い今までは、Step 3 の努力がある程度実って Step 4 に進めていました。しかし、今後 Step 3 で行き詰まった場合、精神的に大変なんじゃないかと不安に思っています。 抽象的な話で申し訳ありません、何かご意見を頂けないでしょうか。

 

あなたがどうせよとは言えないのですが、ふわっとした意見を言わせていただくと「自分からの声を少し弱めて、他者の声を素直に受け止めてみる」練習はお勧めできます。

あなたは十分に自分の状況をとらえていらっしゃるようです。ヤバそうなことが起きるかもと察知しているのでしょう。

他者からの評価を素直に受け止めてみるというのは、そこに合わせて努力するという意味ではなく「この方は自分のことをそのように評価してるのだなあ」とそのまま受け取るという意味です。その評価はあくまでその人の評価に過ぎなくて、そこにもしもあなたが至っていないとしても、あなたの責任ではありませんし、あなたがそこに至らねばならない理屈はどこにもありません。

自分からの声を少し弱めるというのもわかりにくい言い方でしたが、いままでと違う方向に(試しに)行ってみるということです。あなたの内なる声がたとえば「こんな分不相応な評価を受けてしまった!このまま進んだら自分は嘘つきになってしまう!必死にギャップを埋めねば!」といったとしても、「いやいや、そうそう焦りなさんな。潰れてしまっては評価の何もあったもんじゃない。マイペースで着実に行こう」と自分の「声」を押し返してみるのです。

そのようなときに大事になるのは、いろいろ話せる別の人の存在です。あなたが私に書いたような話を雑談まじりに聞いてくれるような人。あれこれ言わずに、あなたの話を聞いてくれる人。そんな大人な人がそばに存在するとなかなかいいのですけれど。

十代後半の学生さんで、周りから評価を受けるということは、普通に考えると、あなたはそれなりに優秀なのだと思いますよ。ですから、あなたの持ち味を、不必要な頑張りや闇雲な努力ですり減らさないようにしてほしいです。丁寧に自分を遇し、優しく大きく自分を育てるのです。

過分な評価を受けたからそれに応えようとすることは、うまく制御できていれば結構なことです。問題はそこに悲壮感が混じったり、より広い視点に欠けたりすることです。

あなたに与えられる評価は、いまのところはあなたのすぐ近くから来るものでしょう。世界はもっと広いし、想像を絶する多様さに満ちています。あなたはそのような世界に出ていくのですから、丁寧に自分を遇し、じっくり自分を育てましょう。

そんなふうに思いました。ご質問ありがとうございました😊

 

他愛のないツイートかもしれない。

でも周りに怯えて、周りからの声や評価に一喜一憂してきた耳の大きなキリンの僕は、この周りからの評価に何度も押し潰されそうになった。他人が評価してくれることが何かの原動力になっていたし、否定的な意見は心に刺さるトゲだった。だから期待のプレッシャーに怯えて、その期待に応えられないことを怖れながら、自分のキャパ以上のことにとっかかってなんとかこなしていた(と僕自身は思っている)。それが自分の成長に繋がった面もあることは自覚しているし、この質問者さんと似たようなところがあるのかもしれない。

困難に直面するたびに「自分の思い描く自分ならこれをするべきなのか」と自問自答していました。

でも回答の中の他人からの評価を受け止めるという内容が、「あ、それでいいんだ」と心に響き、なんだか憑き物が取れたように感じています。

 

自分は自分、他人は他人なんだけれどもね。

さぁ、今日もぼちぼち頑張ろう。

天使たちと触れ合う時間が無くなる

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僕には4歳の娘と2歳の息子がいる。

毎朝、時間に追われながら検温と朝食、着替えなどをこなし、イヤイヤ期真っ盛りの息子の意思を可能な範囲で尊重しながら(この服は嫌だとか、靴は自分で履きたいとかいう主張)保育園へ送り、預ける。それが毎日の日課だ。

娘が保育園に入って4年目、それなりに先生とも周りの子どもたちとその保護者さんとも関係ができてきた。多分、支援学校の教員という職業柄なのかもしれないが、子どもたちの様子がとっても気になるし、個人的に子どもが好きなのでよく話し遊ぶのだ。参観も毎年参加し、子どもたちと一緒に楽しませてもらっている。

 

それが、今年の新型コロナウィルス関係の休園、そして再開初期には、園の奥に立ち入ることはできず、玄関あるいはドアの前で子どもを受け渡すようになってしまった。

確かに着替えなどの用意をする時間は減って、余裕をもって出勤できるようになった。

でも、嫌だ嫌だパパがいいと喚き散らす娘をあやすことも、保育園のキッズたちと触れ合うことも(彼らは僕のことを友だちと思ってくれているようで気軽に接してくれる、それがまた娘の独占欲を刺激してしまうのだけれども笑)、おもちゃに夢中であいさつすら返してくれない息子にアピールすることも…なくなってしまった。

正直言って、子どもたちと関わる時間が減り、とても淋しかった(なにをしに保育園に行っているのかという話ではあるが)。

 

それが徐々に緩和され、もちろん前ほどの接触は避けながらにはなるのだけれども、朝のキッズたちとの触れ合いが再開し、環状線を組み立てる男の子に芦原橋はどこ?今宮は?とマニアックな質問をしたり、娘の友だちとなわとびダンスを踊ったりと、束の間の触れ合いを楽しんだ。

 

それが、先週から同じ市内の施設でクラスターが発生したため、以前と同じ受け渡し方式になってしまった。

あぁ寂しい。

この心の隙間をどうやって埋めたらいいのか。

家に帰れば我が子たちは大抵パパよりもママを選ぶ。なんてこった。

願わくば、失われた天使たちと触れ合う時間が戻るのを求めて…

 

余談だが、保育園のお便りには「いつ新型コロナウィルスの感染者が出てもおかしくない状況ではありますが、人間に配慮した上で感染が広がらないための精一杯の対応をさせてもらいます」と園長先生の言葉があり、系列の病院に相談しながら、日々の対応を進められていることにとても敬意を抱いている。

根拠もないのに「絶対に感染者を出さない」という強い気持ちでと檄を飛ばしていたうちの社長を思い出してちょっとなんだかなと思ってしまった。

子どもたちが大好きな、のびのび過ごせる環境と関わりをいただいている保育園に感謝!!

 

僕もこの世を旅立つときは娘に「大丈夫やで」と言おうと思う、あとはこの本が伝えてくれるはず

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本の感想。

 

「家族だから愛したんじゃなくて、愛したのが家族だった(岸田 奈美)」 という本を読んだ。

 

いやー面白い、いっぱい笑った。そして泣いた。

一瞬で岸田奈美さんのワールドに引き込まれてしまいました。

最高でした。

 

そしていろいろと考えさせられました。

 

支援学校で働く教員として、ダウン症の弟さんの話から、生きていくのになにが大事なのかを考えさせられました。

読みながらいろんなダウンの子たちが浮かんできて、ふふっと笑っちゃいました。

弟さんの期待させといて意外とクールな態度にあれっとなるのはあるあるです。

本のページ番号は(これ文字の読み書きができない弟さんが書いてるんですよ!)、208から209の縮んでジャンプしてるみたいなのが僕のお気に入りです。はさまれた写真もめっちゃいい顔です。

 

沖縄やアメリカへの旅行の話は、車椅子になった聴覚障がいのおじいちゃんのボランティアで、グアムに旅行したことを思い出させてくれました。手話も英語もカタコトやのに、中華料理屋を探させられたり、ビーチに車椅子で突っ込んだり、水中水族館の螺旋階段を抱っこで登り降りしたりしたのが走馬灯のように流れた。

 

娘と息子の2人の子がいる父親として、僕が子どもに先立つときのことを考えさせられました。

残された娘には「大丈夫やで」と僕も伝えてようと思う。

多分、その後のことはこの本が教えてくれる、知らんけど。

まぁ嫁にもこの本勧めといたんで。

 

いつもの本の感想とは違います。

なにが言いたいのかと言うと、この本めっちゃオモロいからオススメですよー!!!ということです。

 

騙されたと思ってぜひぜひ読んでみてください。めちゃ面白いです!!!

 

以上。

『ファンベース』これは生身の相手との付き合い方だ

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本の話。

 

「ファンベース(佐藤 尚之)」 という本の感想。

 

商品や企業の売り上げを見てみると、少数のファンとコアファンが売上の大半を占めている例が多いという。

話題になったTVのCMも、SNSのバズった投稿も、すごいのは最大瞬間風速だけで、すぐに情報過多の海の藻屑として消えていってしまう。

そうではない、その商品を、その企業を支持し、愛して、書い続けてくれるファンを大事にすることが、これからの世の中に必要なのだということが伝えられ、そのための具体例がたくさん掲載されている。

 

読んでいて大学時代に受けた「法哲学」の授業を思い出した。

教授はこう話を進める。

「例えば、みなさんの筆箱の中にあるこの何の変哲もないMONO消ゴム。これが特別な存在になるためには何が必要なのでしょうか。まず名前をつけてみましょうか。仮にMONO太郎とします。このMONO太郎はいつもあなたと一緒に過ごしてきました。予備校の授業も、センター試験も二次試験も一緒に乗り越え、大学に入ってからも一緒になりました。消しゴムを忘れた隣の席の女の子にMONO太郎を貸したのが、付き合うきっかけにもなりました。ある日、筆箱の中にMONO太郎がいません。あなたは戸惑います、友だちは『消ゴムなんてなんでも一緒じゃないか、なんなら新しいMONO消ゴムを買ってやるよ』と言いますが、あなたは新しいMONO消ゴムには何も感じません。初めて手にしたときは同じだったはずなのに…なにがこの2つのMONO消ゴムをわけたのでしょうか」

と、ここら名前や歴史(エピソード)の話に移るのだが、ファンベースの数々のエピソードはこれを彷彿とさせる。

大多数の人にとってはありふれたモノでも、思い入れやエピソードがあれば、特別な、唯一無二のモノになり得る。

そしてファンになってもらえたら、長くファンでい続けてもらうために、よりコアなファンになって、そのモノのアンバサダーになって友だちへ紹介していってもらうために、へりくだるのではなくいい意味で身内として接し、ファンとしての目線を学ぶのだ。

 

僕はモノや企業をブランディングする立場にはないが、僕の日々の言動の積み重ねが、僕と言う個人のファンを増やしたり減らしたり、勤務先の評判を高めたり貶めたりしているんだろう。別にファンを増やすために働いている訳ではないけれど、このファンベースのあり方は学ぶところが多かった。

僕が思う僕の強みではなく、周りの人が思う僕の魅力はなにだろうか。

そんなことが気になった。