メガネくんのブログ

何となく日々思ったことを書いていくブログです。教育や本の感想なんかも書いてます。表紙の画像は大体ネタです。

長所は短所、短所は長所

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道徳の授業の取り組みで、自分を見つめ直すというのをやっています。

試験の面接対策も兼ねて。

 

自分で自分のことを見つめ直したり、他者から自分について評価されたりする中で、自分の長所と短所を考えていきます。

そのとき、伝えているのが「長所は短所、短所は長所」という言葉です。

初めて聞いた子どもたちはキョトンとするのですが。

でも考えてください。

「優しい」っていいことですか?

こう聞くと大半の人が「いいことだ」と答えます。

でも本当にそうでしょうか?

優しいということを、相手を大事にすることや気遣いをすることだと捉えるなら、自分を犠牲にして相手を優先することはいいことでしょうか?気遣いしすぎてしんどくなってしまうのはいいことでしょうか?相手が対立したときにどちらのことも考えすぎて、気を遣いすぎて優柔不断になり決められないのはいいことでしょうか?

長所も過ぎれば、短所になるかもしれません。

 

反対に、短所も見方を変えれば長所になります。

落ち着きがないということは、いろんなものに興味があると言い換えられるかもしれません。

物静かでおとなしいということは、内面でじっくり考えるタイプと言い換えられるかもしれません。

緊張して固まってしまうということは、それだけいろんなことを大事に考えていると言い換えられるかもしれません。

見る角度が変われば、同じものでも違って見えてきます。

ただでさえ人間はいいところよりも駄目なところに目がいく生き物なので。

 

そんな風に短所の見方を変えて、リフレーミングする際に、アプリ「ネガポ辞典」というものを使ったりします。

https://apps.apple.com/jp/app/%25E3%2583%258D%25E3%2582%25AC%25E3%2583%259D%25E8%25BE%259E%25E5%2585%25B8/id443101381

 

この長所と短所の話は以前書いたブログのメリットとデメリットの話に繋がるかもしれない。

よしわるしの話 - メガネくんのブログ

 

面接のことや、この先のいろんな人との出会いや自分の説明をすることも想定しているので、長所と短所をまとめる際には、長所は具体的なエピソードをいくつか用意しておくこと(○○だと保護者や教員から褒められた、○○なときに友だちから言われたなど)、短所はプラスな見方やそれに対する工夫を含めて説明すること(忘れっぽいところは、失敗したことをすぐに切り替えられる長所でもあると考えています。また忘れ物をしないように約束や提出物などはすぐにスマホのリマインダーにメモるようにしています。など)をアドバイスとして伝えています。

 

 

算数や数学で習った数直線やグラフ、分布図などの影響か僕たちはどうも世の中には決められた基準があって、優しいとか親切とか真面目とか努力家とかいうのに絶対的な価値があると考えてしまうようだ。

でも現実の世の中はそうではなくて、もっと多面的で時代や場所、文化や人や立場が変われば、絶対的だと思っていた基準はすぐに入れ替わる。

そう考えると自分の考えや行動が正しいのか正しくないのかがわからなくなって不安になったり混乱してしまったりするのだけれど。

長所や短所と言うのものは、あくまでもそのものの一面でしかないと言うことは知っておかないといけない。

昔の本は面白い『諸國盲人傳說集』

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本の話。

 

大先輩から借りた『諸國盲人傳說集(横田全治)』という本を読んだ。

諸國盲人伝説集 | 国立特別支援教育総合研究所 OPAC

昭和28年発行。

うちの父親より年上だ。

いろんな盲人についてのエピソードをまとめた本だ。

 

読んでいると笑ったり驚かされたりはっとさせられるエピソードがたくさん。

 

眼の病を防ぐと言う湧水を調べてみるとコカインが含まれているという医者の説明(そんなアホな…中毒だらけになるで…)。

筆者がある寺院に奉納されている盲人の杖を案内の小僧をやり過ごして触って確かめた逸話(SNSどころか実名の著書で掲載するなんて…)。

鑑真和尚が土を舐めて、ここは薬草の栽培に適している(土が甘かったそう)と言った逸話(和尚はいつも土を舐めていたのか…)。

百日詣した結果、仏様から眼の薬の入った袋といくら救っても白米が出てくる袋を手に入れる(ザ・4次元ポケット、人が空想できる全ての出来事は起こり得る現実である的な感じなのか…)。

観音様のお告げで高台から飛び降りて着地すると目玉がポロリと落ちて、それをあわててはめ込むと反対に入れると腹の中の五臓六腑がよくみえて名医になったという話(ブラックジャックもびっくりだ)。

蹴鞠で鞠に鈴をつける話はブラインドサッカーを思い起こす(先見の明とはこのこと)。

各地の座頭と名のつく、険しい崖のある地名にホーム柵の設置を連想するもの、大半は盲官のために大量の銭を持って上京する盲人を強盗した後の供養のためと知って怖さを感じる(いつの世も恐ろしいのは人ですね…)。

野原の中で一軒の宿を借りるも、居間しかなく畳のへりもない、どうにも不思議であっちこっち探ってみると貉の大きな睾丸だった(どんだけでかいねん!?)

 

などなど時代の方おおらかさや人の想像力の素晴らしさを感じました。過去の日本人が、努力や個人の才覚よりも神仏の奇跡の方を頼る心理も面白い。

 

後書きに書かれていた、戦争が終わり、新しい世の中にふさわしい道徳律が必要になる。

この本に掲載した視覚障がい者を馬鹿にしたり嘲笑ったり騙したりというような関わり方ではなく、正しい道徳律に基づいた関わり方が求められるという旨のことが書かれていて、ハッとさせられる。

60年以上前の本である。

でも今の世の中は、障がいに対する無知や偏見を払拭できているのだろうか。

理解が進んでいないとは言わない、でもまだまだだよなぁと考えさせられた。

創造は、イノベーションは、「できない」を発見することから始まる。

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多様性について考える。

 

できると言うことは、変わる必要性や緊急性があまりないということだ。

多分そこから改善や改革は生まれにくいのではないか。

Twitterで見かけた支援学校の生徒が、熟練の技が必要な田植えを下敷きを使って工夫することで手早くやれるようになったという内容のツイートは、「障がいのある人がなぜ必要なのか」と問いかけられ、まだその答えをはっきりと出すことができない自分に一筋の光明のように見える。

 

同じ考え方や価値観の人しかいない、あるいはできる人しかいないというのはすごい爆発力を生む一方で、同時に脆さも抱え込んでいるのではないだろうか。

できないからこそ工夫が生まれる。

多様性があるからこそ、いろんなアイデアが生まれる。

その工夫やアイデアは、その人たちだけでなく、社会に生きる人たちにとっても有用なものかもしれない。

ユニバーサルデザインという概念もそうだ。

目の見えない人、耳の聞こえない人にとって使いやすいデザインが、実は子どもや高齢者をはじめ、さまざまな人に使いやすいデザインにもなった。

 

僕自身も支援学校で働き、日々いわゆる障がいのある子たちと関わっている。

そんな中で、普通ってなんだろう、障がいってなんだろうと考える。

どこから普通でどこからが障がいって綺麗にわかられるのもではなく、グラデーション、繋がってるんじゃないのかな。

なら僕たちが普段している障がいのある子たちへの支援は、年齢層は異なるかもしれないけれど、普通の人にもわかりやすいものになるんじゃないかなとよく思う。

いわゆる教育のユニバーサルデザインというやつだ。

教育でも多様性がイノベーションやわかりやすさにつながるのかもしれない。

そんな想いから、視覚障がいや特別支援教育についての記事もnoteで細々と書いている(良ければ読んでみてください、全部無料です)。

メガネくん|note

 

別に役に立つことだけが認めてもらう条件ではないと思うのだけれども。

それも障がいのある人も含めていろんな人がいる世の中でいい理由の一つにならないだろうか。

そんなことを考えています。

古代の祖先に思いを馳せる

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うちの近所のスーパーにはスープ用の鶏ガラが売っている。

 

ニーズがあるのかどうなのかはわからないけど(実家近くの同じスーパーでは見たことがない)、休みの日で時間があったら買う。

鶏ガラにネギと生姜を入れてコトコト煮るとすごくいい出汁が出る。

今日のお昼のうどんはその出汁を半分使った。

なかなかの出来だった(娘はあんまり食べてくれなかった)。

 

それからまたお湯を追加してコトコト煮る。

だんだん出汁が濁ってとろみがついてくる。

焼き鳥屋さんで出てくるスープのあの感じ。

で、妻と子どもが寝たからに終わった鍋から鶏ガラを取り出して食べる。

 

祖父の影響か、僕は骨つき唐揚げとか焼き魚とかをきれいに食べる。

うちの実家では鯛の塩焼きが出ると、みんな頭のとことか頬のとことかを食べて、鯛の鯛(コレ知ってます?鯛の頬ぼねのところに鯛の形をした骨があるんですよ)を取り出す。

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鶏ガラも祖父の影響か、細かく解体しながらせせってきれいに食べる。

食べながら、「じいちゃんもせせってたなぁ」と思いを馳せる。

うちのじいちゃんは骨まできれいに食べる派だったし、蜂の子やチュンチュン焼き(雀の丸焼き)が好物だった。

 

そうしている間に以前読んだ本を思い出す。

原始の人間は、獲物を狩る側ではなく狩られる側だった。

人間が狩る側になったのは、投げやりという遠距離攻撃を発明して、アウトレンジから一方的に攻撃、つまりビルバイン状態になってからだ。

それ以前は狩られる側だったし、獲物を狩っても、他の肉食動物に横取りされていた。

だから、当時の人類の主なタンパク源は、他の肉食動物が食べ残した骨髄で、骨を石で割ってすすっていたのだとか。

祖父どころか何百万年前からの伝統芸であった。

 

他にも原始のヒトはボノボのように乱婚性であったとか(男性器の形がその証拠らしい、もちろんだからと言って現代社会で不倫が許されるわけではない)、歯は雑食性を表しているとか、男女のコミュニケーションの違いは狩りする男性と集落に残って家事や育児などを分担する女性の違いに由来するだとか、そう思うと今の人間もヒトという本能に由来する部分があるのだろう。

でもその本能と、現代の社会のシステムはあってない部分があるよなぁと、手塚治虫の『火の鳥 未来編』のナメクジ文明を想起してしまう。

 

鶏ガラをすすりながら古代に思いを馳せた話でした。

 

自分がしているからと他人に強要してはいけない

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以前のブログフェアネスについて - メガネくんのブログで書いたのだけど、子どもに限らず○○してくださいと伝える(指導する)ときには、こちらがまず手本を示すというか、他人に求めるからには自分もそうしないとフェアじゃないよねと考えていた。

最近読んだ本で、それは人的環境のユニバーサルデザインとか大人が子どものモデルになるなどの言葉でまとめられていて、自分のやってきたことは間違ってはなかったのかなと安心させられる。

 

でもそれと同時に、この他人に言うからには自分がモデルとならないといけないという心構えのようなものは、過度に信仰しすぎると怖いなと思うこともある。

それがタイトルの「自分がしているからと他人に強要してはいけない」という言葉になるのだが。

 

そう、自分ができているから、示しているから他人もできるだろうというのは大いなる勘違いだ。

まず前提として人はそれぞれ違うし、得意不得意や能力、思考、性格が異なる。

そして根本的な問題として、その人の人生のことを決めるのはその人自身で、周りの人ではないということだ。

これが、血縁関係や子弟関係、学校や職場での教える側と教わる側という関係になると、そう冷静に見れなくなる。

「なんでこんなこともできないんだ」

「俺がこんなに熱心に指導してやってるのに」

 

当たり前だけどできないことを責めてもできるようにはならないし、そんなことをするくらいなら「どうやったらできるか」を一緒に考える方が遥かに建設的だ。

その課題が本人に合っているのかどうなのかを考えることも大切だ(学校での決められたカリキュラムや賃金の発生する仕事となるとその課題を調整するということが極端に難しくなってしまうのだけれども…)。

熱心に指導したのか(かけた時間や練習量)どうかは多分そこまで重要ではなくて、「本人が理解できているのか」「本人がやることに納得しているのか」「本人に意欲があるのか」「本人が楽しんでやっているのか」などの方がよっぽど重要ではないかと考えてしまう。

 

「自分がしているからと他人に強要してはいけない」

そう、本人ではない周りの僕たちにできるのは、アドバイスをしたり、本人にやろうという意思があるときに具体的な方法を伝えてサポートすること、そうなるときのために関係をつくることぐらいなのだ。

アドラー心理学で言う、自分の課題と相手の課題の分離ができていないだけなのだ。

でも熱意や高すぎる距離はそのことを曇らせて、自分の思い通りに他人を動かせると錯覚させてしまう。特に相手が子どもや部下など自分より下の立場のものなら尚更だ。

 

他人に求める際には自分がモデルを示すというのは指導する側の心構えの問題だ。

お店側が「お客様は神様です」と思って接客するようなもので、客が「俺は金を出しているんだから神様だ」と思って傍若無人に振る舞うのはおかしいという理屈と同じだ。

 

「自分がしているからと他人に強要してはいけない」

忘れないように気をつけないといけないなと思う。

子どものために手を出さずに我慢して見守ること

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盲学校の先輩方との話から。


僕たち教員が子どものために出来ることってなんだろう。
何でもやってあげることが、本当にその子のためになるのか。
もちろん付き合いが長くなり、関係ができてこちらにある程度のスキルがあれば何をして欲しいかは雰囲気でわかるようになる。

でも、そこで、こちらから手を出すだけでいいのだろうか。
見守る中で、あるいは本人が困る中で育つ力はないのだろうか。
見守ることは難しいし、子どもに対して厳しすぎてもいけない。
その匙加減は子どもによっても、また関係性によっても変わる。

厳しすぎる指導、不適切な指導についていろいろと大きな話になる時代。
何も考えずにやってあげるのは無難なことなのかもしれない。
でも厳しい言葉で言えば、子どもに何かをやってあげるということは、子どもがその何かを学んだり練習したりする機会を奪うということだ。

もちろん子どもによってゴールは違うし、高すぎるハードルを課すつもりもない。厳しすぎる指導をするべきだと言っているのでもない。

その子に合った環境整備をして、便利な道具もどんどん使っていけばいいと思う。
でも、教員という立場の僕たちは、子どもの将来のことを考えているんだろうか。

小さいうち、学校のうちはそれで良くても、卒業後に困ることはないのだろうか。

正直、学校ほど人手がある環境はこの先ないだろうし、視覚障がいのことについてわかって動いてくれる人ばかりがいる環境もないだろう。

5年後、10年後のことを考えないといけないと良く言われるけれど、学生時代自分がヘルパーをしていた利用者さんの両親が高齢化し、介護が難しくなっている現状を見ると、現実として本当に何が必要かを考えざるを得ない。

 

そんな匙加減や子どもの自分なりの自立に向けた姿勢や関わり方ってどうやったら身につくのかな。
なかなか難しいなぁ、わかってもらえないなぁと先輩と話しました。

今の時代に合っていないのか…

 

おじいちゃん、おばあちゃんのように甘やかしたり、介護のようになんでも意を汲んで行動することは、子どもが自分の力を学び伸ばしていく場としての教育とはちょっと違うんじゃないかと思うのだけれど…大人はなかなか変わらない。

研修で話して、「よく分かったわ、明日から見守るわ」と言っていた先輩教員が、翌日に子どもが落としたものをすぐに拾う現実…

 

はぁ。まぁコツコツやれることをやりながら、子どもや保護者と関係をつくりながら、周りの大人と話しながら関係をつくりながら、自分が厳しすぎないか甘すぎないか自己チェックを続けていくだけですね。

いやなかなかコレ大変ですね笑

子どものことをどれだけ知っているのか

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学校で関わる子ではなく、うちの家の子の話。

先日、保育園で3歳の娘の懇談をしてきた。

(娘の懇談なので早退しますと言うと驚かれたので、保育園での懇談って珍しいのかな)

 

仕事で子どもたちと関わるときと同じように、家庭で娘と関わらないようにしている。

ついつい仕事口調で、そして身内の補正があるのか、問題があったときにはちょっと厳しめで接してしまいがちなのだ。

僕自身が職場の懇談で言っているのだが、学校の授業でも部活でも、習い事でも、家庭でも、全部頑張れる人はいない。どこかで休める場所がないと、潰れてしまう。

そう意識していないと、娘は保育園と家庭とどちらにも先生がいることになってしまう。それは大変すぎる。

 

懇談では先生が「娘さんは園ですごく頑張っているので、頑張り過ぎじゃないか心配しています。家庭ではゆっくり休憩したり甘えたりしてくれたらと思います。」と伝えてくださり、最近家で「いやいやー」と言っている背景がわかったし、それと同時に自分が子どものことをどれだけ知っているのかを考えさせられた。

 

自分が娘を見ている時間は、朝起きてから保育園へ送るまでの1時間半ほど、仕事から家に帰ってから娘が寝るまでの多くても3時間と土日(仕事やらなんやらで全く会わない日もある)。

それ以外は娘から話を聞いたり、妻から話を聞いたり、保育園からの連絡帳の様子を見たりしかない。

それなのに娘のことを全てわかっている気になってしまう不思議。

娘がお風呂で言う「今日の給食唐揚げ出てん!」「よかったやーん、美味しかった」「うん、美味しかった。めっちゃ大きいの食べてん!」「じゃあ今日は何して遊んだのー?」「今日はなー、〇〇ちゃんと三輪車して遊んで」「おー〇〇ちゃん風邪治ったんかーよかったねー」には以下のような内容が隠れている。

「今日は給食に唐揚げが出て美味しかった。そして配膳のときに隣の子の唐揚げがすごく大きいことに気付いて、こっそり交換しようとして(さすがうちの娘、お目が高い笑)、バレて、その子に怒られたけど、先生があまりの唐揚げからどれと交換するのかを選ばしてもらえて、大きな唐揚げを選んで食べた。」

「〇〇ちゃんと三輪車で遊びたかったけど、なかなか誘えずに三輪車で突っ込んじゃった。先生がきて誘いたかったことを聞いてもらって、〇〇ちゃんに先生と一緒に遊びたいって言ったけど、〇〇ちゃんは怒ってて一緒に遊んでくれなかった」

(保育園の先生から妻が聞いた話より)

 

自分の娘でさえそうなのに。

教員という立場の僕は、学校の、しかも自分の前だけの子どもの姿を見て、子どものことをわかった気になりがちだ。

他の教員の前、家庭、習い事、子ども同士、それぞれの場で顔が違うことは当たり前なのに、どれだけ子どものことを知っているのだろうか。

先日読んだ本、『インクルーシブ教育を通常学級で実践するってどういうこと?(青山新吾/岩瀬直樹)』 にもあったけど、そうやって子ども個のことへの関心の需要性が記載されていた。

インクルーシブ教育を通常学級で実践するってどういうこと? (インクルーシブ発想の教育シリーズ)

インクルーシブ教育を通常学級で実践するってどういうこと? (インクルーシブ発想の教育シリーズ)

  • 作者:青山 新吾,岩瀬 直樹
  • 出版社/メーカー: 学事出版
  • 発売日: 2019/01/17
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

幸い、僕は支援学校という教員の数が多く生徒の数が少ない、子どもとの距離が近く、密度の濃い関係ができやすい環境にいる。

 

最近考える人としての在り方、何かを伝えるときの媒体になる人と人との関係性。

それには、相手のことを知ることや相手のことを知ろうとすること(相手のことに興味関心をもつ姿勢と雰囲気)が必要不可欠だ。

 

僕は道徳の実践で一番最初に、自分の好きなものを食べ物やスポーツ、本、漫画など50項目近くを、出来るだけマニアックに書いてもらい(例えばハンバーグなら、ロイヤルホストの黒×黒ハンバーグのブラウンバターソースが好き)、次の時間にそのうちいくつかをクイズにするということをしている。

お互いのことを4月の最初に知ることで、その後のトラブルが目に見えて減るのを実感している。

 

相手のことを知ること。

シンプルなことだけど奥が深く、そして終わりがない。

当たり前でおろそかにされがちだけど。

これからも大事にしていきたいな。