メガネくんのブログ

何となく日々思ったことを書いていくブログです。教育や本の感想なんかも書いてます。表紙の画像は大体ネタです。

固定観念を捨ててみる「赤が情熱の色とは限らない」

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人間はコチコチに固定観念で固められた生き物だ。

常識や当たり前と言うものは、時代や場所、文化が変われば当たり前のように変わるものなんだけれども、僕たちはそんな常識や当たり前が足元にある固く永遠に続く大地のように変わらないと信じて疑わない(大地ですら長いスパンでみるとマントルによって爪の伸びるスピードくらいで動き、刻一刻と風化していくのに)。

 

例えば、虹だって僕たちには7色(赤・橙・黄・緑・青・藍・紫)に見えるのだけれども、アメリカ合衆国では6色だし、古代中国では5色、ジンバブエでは3色、沖縄やリベリアでは2色になる。

学校では当たり前のように地球が丸いことや地球が回転(自転)しながら、太陽の周りを周っている(公転)という地動説を学ぶけれど、感覚としては太陽やその他の星が空を回っている地動説の方が正しい感じがするし、それを証明した人がいることは知っていても、自分自身で証明できる人は少ないだろう。

 

なんでこんな話をしているのかというと、娘の塗り絵だった。

ディズニーキャラクターの描かれた塗り絵で、3歳になる娘は、ミニーマウスの耳の部分を黒色で、顔の部分を肌色で、リボンを赤色で塗っているのに気づいたのだ。

もちろん写真やカラーイラストや、ディズニーランドで出会ったミニーマウスの色はその通りだ。

でも僕が考えていたのは、自分の勤務する盲学校の子どもたちのことだった。

 

先天の全盲のこの場合、僕たちと同じような色の感覚はない。

 

例えば赤色について、

赤は太陽の色、郵便ポストの色、苺や林檎の色とは習うものの、そもそも太陽とポストとイチゴとリンゴの赤色は同じではないということはわからないし、こちらも言葉で説明することが難しい。

それにイチゴやリンゴは文字通り、一皮剥けば、その中身は赤色ではない。

太陽にいたっては、そもそも赤色とは限らないし(朝日や夕日に空が茜色に染まることはあるが)、おすすめはしないが、太陽を見てみると眩しく白色に輝いているように見えるのだ。

 

話を元に戻すと、先天盲の子たちは、知識として「〇〇は何色」というものは知っていても、微妙な色のニュアンスや色のイメージという固定観念はない。

何度か授業てやったことがあるのだけれど、先天盲の子たちに自分の思う色のイメージを選択してもらうと、「紫はカッコいいクールな色」「嬉しいときは赤色」「情熱は黄色」など固定観念に囚われない色のイメージが飛び出してきてとても面白い。

考えてみれば、ピカソだって草間弥生だって、常識的な色に囚われないから、インパクトのある作品を次々と生み出した。

 

常識を知っていることも大切だけれども、その常識という固定観念を捨ててみると、案外面白い、新しい境地が生まれてくるのかな。

そう思った僕は、ピンク色と水色と紫色の色鉛筆を手に、カラフルにミッキーマウスを塗り上げた。

大爆笑だった娘は、オレンジ色と赤色とはピンク色でミニーマウスを塗り上げた。

フェアネスについて

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フェアネスというものについて考えてみる。

 

学校という現場で働く僕は、子どもに一方的に指導したり、子どもだけに謝罪やお礼を強要するのは僕はフェアではないと考える。

 

悪いことをしたら「ごめんなさい」謝りなさいと言うならば、自分も悪いと思ったときにはすぐに「ごめんなさい」と謝らなければならない。

何かをしてもらったら「ありがとう」と感謝を伝えなさいと言うならば、自分も何かをしてもらったときにはすぐに「ありがとう」と感謝の気持ちを伝えないといけない。

なるべく好き嫌いなく食べなさいと言うならば、自分の嫌いなものを食べる姿勢を見てもらおう。嫌いな食べ物のない人が「好き嫌いなく食べなさい」と強制するのはフェアじゃない。ウサイン・ボルトに「100mは10秒は切らないといけないよ!」と言われているようなものだ。

「相手の気持ちを考えなさい」と言うならば、それを伝えている相手の気持ちにも寄り添わないといけない。加害者にも被害者にも誰にでも気持ちはある。

積極的に挙手しなさいと言うならば、研修会でほとんどの教員が挙手しないのはなぜだろう。積極的に挙手できるのは当たり前でなく、すごいことだと褒めてもいいかな。

「何回間違えるんだ」「何度言ったらわかるんだ」と叱責するなら、自分の心に「何回間違えさせるんだ」「なんでわかるように伝えられないんだ」と問いかけないといけない。何かを学ぶということは、何かを伝えるということでもある。

 

 

こんな考え方は、村上春樹の小説で言う手作りの真空管アンプみたいなもので、時代遅れなのかもしれない。

 

でも僕はなるべく子どもに対してフェアでありたいと思う。

もちろん学校という場所で教える立場があるし、大人と子どものパワー差があるから、平等にはなれない。

机の散らかっている僕が、子どもに机の上を片付けなさいと指導しないといけないこともある。そんなときも、机を片付けられないめんどくささをわかった上で、でも片付けた方がいいことあるよと伝えるようにしたいなと思う(できないこともある)。

子どもの前で謝るのは、教員としての立場がなくなるという意見もあるだろう。

いちいちそんなことはしてられないという意見もあるだろう。

 

フェアネスについて思うところがあっても、実際にはうまくいかないことも多い。

でも失敗や間違いを繰り返しつつも、少しずつできるようになっていきたい。

僕の思う子どもは、保護者や教員の所有物や大人に劣る指示や指導をされないといけない存在ではなく、僕ら大人とある意味では対等な存在なんだと思うからだ。

特別支援の考え方に染まってはいけない

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「特別支援の考え方に完全に染まってしまってはいけないよ」

教員1年目にある先輩教員から言われた言葉だ。

 

特別支援学校に通う障がいのある子どもたちと接する機会があまりなかった場合、障がい=何もできないと考えてしまいがちだ。

なので、まるで孫の世話でもするように甘やかすというか、身の周りのことを全部やってしまい、結果として子どもが自分でやって力を伸ばす、成長する芽を摘んでしまうことに繋がりかねないやり方をよく目にする。

でも優しく暖かい関わりが心のオアシスになる子もいる。

 

ただ長い間子どもたちと接していると、少しずつ本人のペースで成長していることに気づくこともある。

障がいがあってもなくて人は成長するのは当たり前のことだけど、それを知ってから子どもを追い込むように頑張らせるやり方もよく目にする。

やらないとできるようにならないのはそうだろう。

 

いやいや、環境の調整や具体的でシンプルな方法の提示が大事だよという考え方もある。

その子にとって過剰であったり、何故やったのかわからず、効果があまりないような視覚支援や言葉かけのやり方も目にする。

でも適切な環境調整は人の行動を変える、それまでとは別人のように成長するかもしれない。

 

個人的にはどの視点も大切だと思う。

ただ一つの考え方を盲信し過ぎるのはよくない。

子どものことをしっかりと見極めてアセスメントし、子どもと関係をつくり、適切な支援と負荷をかけるのがいいんだと思う(もちろん口で言うほど簡単なことではなくて、そのさじかげんに日々悪戦苦闘しているのだけれども)。

 

でも残念ながらそんな考え方の人ばかりではない。世間ではまだまだ障がいに対する理解が足りないし、本人のせいや障がい者だから仕方がないという風潮はまだまだある。

 

特別支援や障がいの世界に関わってもう15年以上になる。

世間に対する不満もある。

 

 

先輩教員の言いたかったのは、子どもを甘やかしてしまう教員のことを槍玉にあげつつ、そんな世間の間隔と乖離しすぎてはいけないという意味だろう。

 

世間が変わらないと悲観していても何も変わらない。

ならその世間とのギャップを知りつつ、その溝を埋めるためにどう隙間を埋めていくのか、アプローチをかけるのかを考えて行動しないといけない。

人間は原理原則な理想論だけでは動かないし、相手の立場を考えずに一方的に発信するアプローチは効果がない。

 

そして人間は環境にすぐ慣れて染まってしまう。はじめは持っていた違和感も無くしてしまう。

だから特別支援と初めて接する人、自分の学校に新しく来た人にはそんな違和感を教えてもらうようにしている。

 

特別支援にいる自分の立場やその思いを大事にしながら、でもそれを知らない、興味のない人に向けてどう発信していくのかを考えないといけないんだよなぁ。

「なんとかなるし、楽しいよ」『見えない私の生活術』

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『見えない私の生活術(新納季温子)』を読んだ感想。

見えない私の生活術

見えない私の生活術

 

全盲の著者が生活の中で困ったことやそれらへの工夫などのエピソードがたくさん語られる本。具体的な事実やそれに対する想いや感想なんかもあってリアルな感じがよくわかる本。

 

この本にあった「なんとかなるし、楽しいよ」という言葉について考える。

学校だと安全とか万が一のときはどうするとか責任とかいろいろあって「なんとかなるからやってみよう」はなかなか言えないしできない。

けれども、なんでも準備万端で万全の状態でとか考えるとなかなか一歩が踏み出せなくなる。

そもそも想定外のことが起こらない方が珍しいし、全てをコントロールできるという考えもおこがましい。

失敗して恥ずかしかったり、どうしようもなく困ってしまうこともあるだろう。

実際本の中にはそんな恥ずかしくて二度としたくないような失敗のエピソード(川への転落や乳児の娘を間違って家の中に置いたままオートロックのドアを閉めてしまった話、お弁当のブロッコリーが黄色で硬くて娘がお弁当を残してしまった話などなど)がたくさん掲載されている。

でも、そこで足を止めていたら何もできない。

別に無理矢理一歩を踏み出せという訳じゃない。

もちろんなんにも知らない、わからない状態や状況で無理矢理放り出せと言っているわけではなく、それに向けての本人の意識づけや基礎基本になることの練習なんかは必要なんだけれども。

そんな一歩を踏み出そうか迷っているときに、この「なんとかなるし、楽しいよ」はすごく大事で、いろんなことのはじまりになる、背中を押してくれる言葉じゃないかなぁと思った。

 

あと冒頭にある、著者が盲学校中学生時代に社会の授業で唐突に(HRに担任から言われた訳じゃない)で言われた場面が印象的。

私が楽しみにしていた歴史の授業が始まろうとしていたが、突然先生のお説教に変わった。「おまえらは人に頼りすぎや。甘えとる。中学生にもなって、誰も学校まで一人で来られん」と、私たちが自立できていないことを、手きびしくこんこんと指摘された。問答無用の、あまりに一方な先生に怒りが込み上げてきたが、悲しいことに言われることはすべて事実だった。先生は最後に、「おれにこんなこと言われてちょっとでも悔しいと思うんやったら、一人で学校まで来れるようになってみろ。親はいつまでも生きてないんやぞ」と、徹底したダメ押しである。これでもか、これでもかと現実を叩きつける先生と、今まで他人に頼ってばかりいた自分に腹がたったが、一言の反論も弁解もできなかった。

この後、著者は自宅から学校への自力登下校にチャレンジしていくのだが、もちろんみんながみんなチャレンジできる力がある訳ではない。

 

もちろん今と当時で障がいに対する考え方は違うし昔のように障がいの克服をすべて個人に求めるのは間違っていると思う。

かと言って全てを周りの人や環境に求めるのでもなくて、

「自分でできることはする、できることをできれば増やしていく、そうすると自分のペースで好きにできるで」

というのが、今、自分が子どもに伝えていることだ。

学校にいる間に全てを身につけることはできないだろうけれど、その先に身につけていくための基礎とチャレンジする意欲は持ってて欲しい。

あと「なんとかなるし楽しいよ」のスタンスもあればいいなぁ。


まぁその子の人生はその子が決めるんだけれども。

笑顔でありがとうございますを言う

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普段実践していることだけど、

 

コンビニで買い物したあと店員さんに

朝交通整理をしてくれている近所の人に

飲食店でお会計をしたあと店員さんに

いつも家事を分担してやってくれる妻に

お手伝いをしてくれた娘に

学校で仕事をしてくれた子どもに

一緒に授業をする同僚に

お迎えに行ったあとの保育園の先生に

息子が熱を出したときに来てくれる義母に

 

ありがとうを言う。

できるだけ笑顔で言う。

 

僕たちはいろんなものに支えられて生きている。

自立とは多様な依存先を持っていることだという言葉もある。

いろんな人に支えられて、助けられて、僕はなんとか今日も立てている。

 

子どもにありがとうを言わせたいなら、こちらから見本を見せないと(たまにこちらから先にどういたしましてと素早く言って、ありがとうを強要させたりするけれど笑)

 

ありがとうのパワーってすごいねと実感した、娘からの特大の笑顔のありがとうを受けて思ったことでした。

いい肉についての話

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今週のお題「いい肉」について。

 

肉か魚かと聞かれると大抵肉を選ぶ。

飛行機の機内食もそう。

つまり僕はどちらかというと肉派だ。

 

 

いいお肉を食べたことがない訳ではない。

 

結婚前から、子どもが生まれるまでは、妻と付き合った記念日(イコール結婚記念日)やクリスマスイブのディナーにちょっといい鉄板焼きのお店に行ったりなんかもしていた。

友だちが三重の松坂市に住んでいたこともあり、何度か本場の松坂牛(まつさかぎゅうではなく、まつざかうしの方)をいただいたこともある。

 

あのお店で食べる、いいお肉。

口の中に入れて噛んでいると消えてしまう系のお肉。

ガーリックチップや山葵を多目に乗せてもそれに負けないくらいの脂の旨味と風味。

量は満腹になる程ではなく、またすぐにでも食べたくなるようなあの感覚は今も好きだ。

 

でもそんなに高貴な生まれではないので、そうそういいお肉は食べられない。

それに舌の問題かどうかはわからないが、脂身の多い、所謂サシの入った特上のお肉はそれほど量を食べれない。

どちらかというと、肉汁の溢れる赤みのお肉をそこそこの量で食べる方が好みなのだ。

 

赤みのお肉は別に外食でも構わないのだけれども、

いきなり立ち食いのできる、マイレージポイントの貯まるあのお店は、あそこは脂身もきっちり量に入ってくるのがたまにキズ。

沖縄で大学時代の連れと食べた大食い対決のメガポンドステーキ(600g)は、きっちり赤身だったけれど量が多すぎた(昼に特大ソーキそばを3杯食べていたせいもある)。

定期的に食べ放題のできるステーキのボス的なお店は、せっかくステーキも食べ放題になるコースにしたのにお肉がゴムのように硬く、ハンバーグばかりを注文するという悲惨な結果になってしまった。

 

こうなると家で作る他はない(別に探せば赤赤身の美味しいお店は山ほどあるはずだけど)。

 

別に料理は苦手ではない。

少し手間ヒマをかけるだけである。

 

まず、お肉は常温になるまで置いておく。

できればある程度の厚みに切っておく。

脂身は取り除き、筋を切り、フォークで何度も突き刺しておく。

塩胡椒は諸説あるけど、焼いてからふりかけるのがいいらしい(焼く前に塩胡椒を振って、出てくる余分な水分をキッチンペーパーで取り除くというのもみたことがある)。

強火で一気に焼き上げる(ミディアムレアくらいが好みなので)。

焼いてから少し休ませる。

休ませている間にソース(個人的には焼いた後の脂に醤油と酒とめんつゆを入れて煮詰めるものがオススメ、ポン酢も好き)をつくか、取り除いて置いた脂身を細かく切ったものをピーマンともやしと炒めた付け合わせをつくる。

お皿にもって出来上がり。

 

これで安いお肉でもそこそこ美味しくいただくことができる。

 

・・・

一体なんの話なのか。

お題は「いい肉」だったのに、安い赤身ステーキを美味しく食べる方法になってしまった。

大体いい肉の日はもう過ぎているし、体調が悪過ぎていい肉どころの騒ぎではなかった。

ちょっといい肉が食べたかったのに、食べれなかった腹立ちも入っているブログはこれにて終了です。

 

今週のお題「いい肉」

人見知りだけれど社交的

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社長との飲みで盛り上がった話。

 

みんなが勝手に僕を誤解していくという話にすごく共感した。

 

曰く、

本当は嫌いな人でも、嫌われたらどうしようと考えてしまう。

なので、八方美人的に、バランスを取るように対応してしまう。

一度関係ができると、たとえ嫌いな人でもその関係が崩れるのが怖くなる。

そうなると、その人との関わり方を変えるわけにはいかなくなる。

当たり障りなく接しているうちに、嫌いな相手や苦手な相手から「この人は自分のことを信頼しているのではないか」と思われる,

一度高評価を得た相手は、本人の都合のいいように解釈してくれるので、何をしても好意的に考えてくれる。

 

 

一度はじめると止まらない、負の連鎖が続くのだ。

僕たちは相手に合わせて、ある意味演技をする。それは演技なのに、周りからは本当の僕なんだと思われる。

この現実と内面の乖離に悩みながら、止まらずに演じ続けるのだ。

だからいろんなことを気にしてしまう。

あの選択はそれで本当に良かったのかなとつい気にしてしまう。

不安をあげればキリがない、でも今の仮面を壊すのも本当の自分をさらけ出すのも、怖いし、不安だし、ちっぽけな「人に好かれたい」という虚栄心が許さない。

 

 

自信満々でプライドの高い人とは距離を置きたくなる。

その自信はどこからくるのだろうかと思う。

全く完全に良いだけのことなんて多分ないし、反対に全く完全に悪いことも多分ない。

 

全ての面には、メリットデメリットや、よしわるしがある。

だから自分が正しいことと思うことさえ、場所や相手やタイミングや状況が変われば悪いことにもなり得る。

 

だからいつも不安に苛まれている。

でも僕にもちんけなプライドがある。

だからなかなか正直に自分を出せない。

不安なことを伝えはするけど、全てをさらけ出すことはしない。

 

なにが良くてなにが悪いかなんて、結局時間が経ってみないとわからない。

いや、時間が経ってもわかるかどうかあやしい。

でも、僕の人生を生きる僕は、選択しないわけにはいかず、今日も悩みながら正解と思わしいものを選んでいく。

プライドが前に進めと指示を出す。

 

高校時代の友だちには、「人見知りだけど社交的だね」と言われた。

めんどくさい、難儀な性格なんだ。

でも慕ってくれる人がいる、たまに重荷になるけど信頼してくれる人がいる、だから人見知りだけど社交的という、訳の分からない性格の僕は、嫌になりながら今日も進む。

前球が後ろだかわからないけれど。

 

こういう人って多いのでしょうか。

まぁ多くてもなかなかほんしょうをさらけださないんだろうな。

じゃあ似た人に会うのは、結構レアな体験だったのかもしれない。